子ども観察記+α

兄(10歳・小4)と弟(7歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

覚えた言葉を使いたい

弟くんをお迎えに行ったら、顔が腫れていた。どこかにぶつけたかな、と先生も心配な様子。「痛くない?」と聞いたら、
「そんなの痛くもかゆくもないよ!」と唐突に慣用句が降ってきて、思わず先生と笑ってしまった。使い方があってるような間違ってるような。

「覚えたての言葉を使ってみたい」という気持ちが、兄も弟も、強い。漢語も慣用句も、比較的幼い頃から会話の中にばんばん入っている。「はー疲れたー」と言えばいいところを、「体力が激しく消耗してる〜!」とかいう保育園児…身体は小さいのに、口調がおじさんみたいだ。

今日、「街場の文体論」(内田樹)の読書会に参加した。会話の中で「語彙が増えるとはどういうことか」に話題が及んだ時に、ぱーっと、自分の小さい頃のことが蘇った。

わたしも兄弟と同じように、聞きかじった言葉をよく使ってみる子どもだった。最初はとにかく、聞いたことを口に載せてみたいのだ。言ってみると、だいたい周りの大人は笑う。今思うとそれが嬉しくてやっていた部分も大きかった。あの、大人たちの温かい笑いが懐かしい。

幼い口調で言うからギャップがあるし、だいたい場にそぐわない大仰な表現になる。そして微妙に使い方が違ってたりする。そういうことの面白さもあれば、言葉を獲得したいという子どもの好奇心に対する好感もある。…大人たちの笑いの中には、いろいろなものが混じっていたと思う。「お前が話すと話が難しくなる」と苦笑されることもあったけど、でも全体的には、せいいっぱい背伸びし、成長しようとしている自分が喜ばれている、寿がれているような感覚があった。

「痛くもかゆくもないよ」って言う弟くんの口調が妙におかしくて、わたしは先生と一緒に笑った。さっき棚のパンを持ち出しながら「ぼくはしょうこりもなくパンをぬすみぐいするよ!」と宣言していた時も。これってほんとうにささいな、日々くりかえされることだけれど、その都度、おかしくて、笑っちゃって、愛おしい、と思う。

こうやって、兄弟たちが、楽しさの中で言葉を覚えていっている様子を側で見ていることが、わたしにとっては子育てのうちの大きな喜びのひとつだな、と思う。

参加した読書会はこちらです。

eriie.hatenablog.com

兄、真面目化する。

長男が最近、真面目化している。
宿題をやる。予定を調べる。時間通りに寝て、起きる。さっさと食事をし、食器をかたづけ、着替え、さわやかに登校していく。

これまでは「真面目担当」は母親のわたしのほうだった。(と思う)
自分が小学生の頃はロクにやったことのない宿題を「やりなさーい」と言い、飲み会で鍵落として帰ったりするのに「予定調べた?」と聞いてきた。

長男はその間、予定を調べかけては隣に置いてある「戦国ものしり事典」を読み始め、宿題のプリントを開いては電車の路線図を書き始め…と、なかなか「すべきこと」が進まなかった。やりたいことを先にやらないと他のことが手につかないタイプなんだよなー、と苦笑まじりに思っていた。

それが、このところ変わってきた。帰宅してさっさとランドセルを開き、学校からのプリントを見せ、宿題を片づけることが増えた。隣にはPCを開き、資料が積んであるその上でぼーっと漫画を読んでいる母親(←自分)。真面目担当が完全に交代している。

昨日から長男の塾通いが始まった。帰宅してから急いでおむすびを食べ、バスに乗って出かけて行った。帰宅は遅く、ご飯を食べてお風呂に入って、学校の宿題するのでせいいっぱい。ものしり事典や路線図の入る隙間はなかった。ほんとに見事に。

今朝、長男が「なんか最近ぼく真面目化している」と、言ったのだ。はっとして顔を見たら、いつもののんびりした表情だったので少しほっとした。「真面目化ってどんな感じするの?」と聞いてみたら、「力をちゃんと出しているって思うんだよねー」と返ってきた。

それなら良かった、と思うものの、やはりどこか腑に落ちない。子どもが21時過ぎに帰宅することや、隙間のないスケジュール感に「これでいいの?」という気持ちがある。その中で「真面目」にやっていこうとしている息子にも。そんなことなら宿題やんなくたっていいし学校のプリント出してくれなくてもいいよ…(いや、それはないか笑)。

でもそう思っているのは、目下のところわたしだけらしい。息子は今のところ、新しい体験を楽しんでいるようだ。

「力をちゃんと出している感じ」という喜びの中には、いろんなものが含まれると思う。満たされる喜びもだけど、できてうれしい、ほめられてうれしい、整っていてスムーズ、前の自分とは違う風になっていくことが面白い…いろいろある。だから、いろんなことを体験したらいい。その上で、これは違うな、と思った時には、周りのことなんか気にせずに、止まったり戻ったり他の道へ行ったりすればいい。それは完全に自由だよ、ということだけは、ちゃんと伝えていこうと、それだけを今は決めている。



いい月曜日。

月曜の朝、みんなが出かけていったあとで部屋を片づけながら、土日のことを思い出す時間がけっこう好きだ。

リビングのどまんなかに、「ラキュー」の箱が置いてある。昨日の晩、弟くんがつくっていた新幹線の途中までできあがっている。「つくりおわるまでねない!」と言い張って、みんなが寝たあとまで起きてつくっていた。今朝も「これ誰もさわらないでね!お母さん続きやっちゃだめだよ!」と念押ししていた(やらないよ…)

ベランダには、兄が干していった洗濯物がかかっている。袖が中に入ってるのもある。というか今紅白帽が干してあるのを発見したんだけど、大丈夫か兄。

テーブルには夫の淹れてくれたコーヒーが載っている。今朝、ふだん飲むコーヒーが切れていて、そういえばパックのドリップコーヒーの使いかけあるなあ…と思いつつ、探すのが面倒なので「コーヒー切らした」と言い張ってたら、「ふーーーーーん」と言って、夫が見つけてきたのだった。

日曜はずーっと4人で家にいて、しかも兄弟がやたらと歌をうたいまくるので、静かな時間がないとつらいわたしは何度か気を失いそうになった。一度は近くのコーヒー屋さんに家出して、ひといきついて戻ったりもしたんだった。

今こうして静かな部屋の中にひとりでいることの尊さよ!と思う。夕方になれば戻ってくる喧噪も含めて、尊い。

これからわたしはコーヒーを淹れ直し、夕方まで家で仕事をする。お昼は近くのパン屋に買いに行く。兄に頼まれていた赤青えんぴつとノートも買う。部屋のまんなかのラキューは、うっかりふまないようにして過ごす。

いい月曜日だ。



性教育!

conobie.jp

を読みました。
「聞かれたらちゃんと答えよう」とはずっと思ってたんだけど、目下のところ性の話題にはぜんぜん触れてこないご兄弟…
まだまだ子どもなのね、って思ってたけど、よく考えたら、兄くんの好きな戦国時代小説には、武将たちの房事が割ときっちり書かれてるのだった。

おぼろげに知りつつあり、しかしそれを親には語っていない、というところだなあ。ふーむ。(記事にある「9歳を過ぎると外部の情報が増え」、って本当だ)

考えてみたら、わたし自身もそんな感じだった。小3くらいから、だんだん小説やテレビドラマの中に、「なんだこれは?」って感じの不可解な描写があることに気づきはじめて、あーなんだかこういう感じのことね、と頭の中でイメージができていったんだった。それこそ、新聞で連載してた「影武者徳川家康」とか。あと、「ノルウェイの森」とか。

でも、小説やドラマの中の、特に女の人は、どちらかというと辛そうに見えた。なんか基本真顔だし。だからわたしは性表現について、割と暴力に近いイメージで捉えていたかもしれないと思う。(なので、大人になって拍子抜けした。あれ?案外楽しいじゃーん、って)

性の話の中に含まれる、不思議さ、楽しさ、愛おしさ、執着、いらだち、衝動…もし、「お母さんはどうだった?」って聞かれれば答える用意はできている。けどまあ、その質問はこないだろーなー笑。

というわけで、日々の生活からの切り口を、なんとなく探し始めている。

パン切ってあげようか?

朝、弟の食事がなかなか進まない。聞くと、「お腹がいたくていたくて食べられないよ」という。


顔色は悪くない。(さっきまで兄とプロレスごっこしていた。)ひとまずお腹にも触れてみたが、ちゃんと動いている。

「このへん痛い?」「少し休んでいようかねー」などと話していたら、先に食事を始めていた兄が、


「四分の一くらいだったら食べられそう?」と、言った。

「うーんちょっとだけなら食べられそう」「じゃあぼく切ってあげよっか」というやりとりの後、兄は台所でトーストを四つに切って戻ってきた。そして、切られたトーストのひとつめを弟はすいすい食べ、「もう一個たべようかな」「あれあれもう一個行けそうだぞ」などとといいつつ、結局完食した。

なんだかいい感じじゃないか君たち。じゃあ2人に任せてお母さんはもう少し寝るね!…と、うっかりふとんに戻りそうになりました。

そんなに盛大に優しくする、という感じじゃなくて、まるで何かのついでであるかのような、すっとした声の掛け方だった。だから弟も、すっと乗れたのだろう。

こういうやりとりって、どちらかが疲れていると、できないだろうという気がする。兄弟は今、元気で健康なんだな、と思う。ありがたい。

ふしぎな子の話

次男の保育園の同級生に、ちょっとふしぎな女の子がいる。

次男をお迎えに行くと、時々部屋の入口までやってきて、手品を見せてくれるのだ。

切れた!と見せかけてつながっている毛糸。折り紙でつくったおさいふの中に入ったらいつのまにか増えているコイン。種もしかけもぜんぜん分からない。

ふしぎな話をしてくれるときもある。この間は「どんなに大きな紙も、9回以上は折れない」という話を教えてくれた。(家でやってみた。たしかに9回しか折れなかった)

わたしがいるのを見つけると、すすすっと近寄ってきて、「ねえねえ、おもしろいこと教えてあげようか?」と、目を見ながら小さい声で言う。(いつもではない。手品もお話もないときの彼女は、目があってもスルーだ。クールな人なのだ。)

彼女のお母さんに、「◯◯ちゃん、手品じょうずですねー」と声をかけたことがある。お母さんは、「手品ですか?」と驚いていた。家ではやっていないという。しまった、秘密だったのかあれは、と思って、それ以上は聞かなかった。(が、それにしても、6歳の子が、家族に知られずに手品やふしぎなお話を習得することが可能だろうか?)

お迎えの時間の関係で、彼女に会える曜日はだいたい決まっている。その日は心のどこかで「今日はあるかな。」と楽しみにしている自分がいる。楽しみだけど、でも期待しすぎないように。平静を装いながら、保育園の玄関を通る。

彼女はまだ小さいのに、もう自分の秘密をもっている。そしてそれを時々こっそり見せてくれる。とてもふしぎで、そして素敵な子だ。



ぼくなんかいなければいい

先日来、何人かの友人がSNSでこの記事をシェアしている。

blogos.com


これを読んで、少し前にあった次男とのやりとりを思い出した。

次男はその日、兄の文房具を持ち出してこちょこちょいたずらしていて、止めても止めてもなかなかやめなかった。「やめて」とくりかえして言っても聞かない。夫が「そっか、きみは話が聞けないんだね」と言ったとたん、それまでにやにやふざけていた次男が急に、

「お兄ちゃんばっかり!ぼくなんていなければいいんだ!!」と、言ったのだ。

もう、びっくりした。その場は「お兄ちゃんばっかり」的なシーンではなかったし、「ぼくなんていなければいいんだ」の言葉の重さは、起きてることとあまりにも不釣り合いに見えた。

夫が「そんなこと間違っても言うなよ」と言うのと、「弟くん、それほんとうに思ってる?」とわたしが聞くのがほぼ同時だった。

わたしのほうが一見「聞く感じ」にはなってたと思うけど、でも、彼の言葉を正面から受け止めてないところは一緒だった。次男はその後本格的に怒り始め、そこからのやりとりでようやく「お兄ちゃんばっかり」の根っこを探り当てることができた。

この記事の中には自傷行為をする子どもたちに対する大人たちの「甘えている」という反応が紹介されていた。また、「死ね」が口癖の子に対して「ユーモラスに」そんなこと言わないでよ、と声をかけて抱きしめる、という方法も(記事では「問題のある方法」として)紹介されていた。

記事に出ていたこれらの反応と、自分たちが次男に返した言葉は、おそらく同じ種類のものだという気がした。どこかに、子どもたちの表現を「かわす」「ふさぐ」感覚が入っているように感じる。

とっさに「かわす」のはなぜか。わたしの場合でいうと、たぶん、こわいのだ。子どもの声を、本当の意味でちゃんと受け取る、ということが。ちゃんと聞いてしまったら、もしかしたら自分はそれを受け止めることができないかもしれない。親なのに。(この「親なのに」を外せば、きっともっと聞けることは増えるんだろう、と思うんだけど、なかなか難しい)

そう思ったら、「まだいのちの大切さを知らないたかだか6歳の子が、どこかで聞いたことを言っているだけ」と思い込んだほうが、はるかに楽だ。そして、「そんなこと簡単に言っちゃいけない。あなたは大切な人なんだから」という風に、論点をすりかえた方が、楽なのだ。

でもそうやって「大切だよ」と言葉でねじふせた瞬間に、大切にしてほしい、という声を潰すことになる。

その、「ぼくなんていなければいい」から数日、次男の様子を見ていたら、それまで見えてこなかったものが見えてきた。なんだかすごくはしゃいでるけどちょっと背中のへんが強ばってる感じだな、とか、今は表情も呼吸も落ち着いてるな、とか。あ、今表情が陰ったな、とか。そういうことを感じ取れることが増えたかもしれない。そして、そんな風に感じ取れているときは、言葉でのやりとりも無理がない。スムーズに流れていく。

積極的に話しかけてくる長男と話している時間のほうが長い、とか、ここのところ長男の用事が増え、それに次男をつきあわせることが増えている、とか、いくつかの発見もあった。

やや耳(&言葉)頼りになりがちな子どもとのコミュニケーション。もうちょっと他の感覚も使っていけるようになるといいな、と思っている。