子ども観察記+α

兄(10歳・小4)と弟(7歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

パン切ってあげようか?

朝、弟の食事がなかなか進まない。聞くと、「お腹がいたくていたくて食べられないよ」という。


顔色は悪くない。(さっきまで兄とプロレスごっこしていた。)ひとまずお腹にも触れてみたが、ちゃんと動いている。

「このへん痛い?」「少し休んでいようかねー」などと話していたら、先に食事を始めていた兄が、


「四分の一くらいだったら食べられそう?」と、言った。

「うーんちょっとだけなら食べられそう」「じゃあぼく切ってあげよっか」というやりとりの後、兄は台所でトーストを四つに切って戻ってきた。そして、切られたトーストのひとつめを弟はすいすい食べ、「もう一個たべようかな」「あれあれもう一個行けそうだぞ」などとといいつつ、結局完食した。

なんだかいい感じじゃないか君たち。じゃあ2人に任せてお母さんはもう少し寝るね!…と、うっかりふとんに戻りそうになりました。

そんなに盛大に優しくする、という感じじゃなくて、まるで何かのついでであるかのような、すっとした声の掛け方だった。だから弟も、すっと乗れたのだろう。

こういうやりとりって、どちらかが疲れていると、できないだろうという気がする。兄弟は今、元気で健康なんだな、と思う。ありがたい。

ふしぎな子の話

次男の保育園の同級生に、ちょっとふしぎな女の子がいる。

次男をお迎えに行くと、時々部屋の入口までやってきて、手品を見せてくれるのだ。

切れた!と見せかけてつながっている毛糸。折り紙でつくったおさいふの中に入ったらいつのまにか増えているコイン。種もしかけもぜんぜん分からない。

ふしぎな話をしてくれるときもある。この間は「どんなに大きな紙も、9回以上は折れない」という話を教えてくれた。(家でやってみた。たしかに9回しか折れなかった)

わたしがいるのを見つけると、すすすっと近寄ってきて、「ねえねえ、おもしろいこと教えてあげようか?」と、目を見ながら小さい声で言う。(いつもではない。手品もお話もないときの彼女は、目があってもスルーだ。クールな人なのだ。)

彼女のお母さんに、「◯◯ちゃん、手品じょうずですねー」と声をかけたことがある。お母さんは、「手品ですか?」と驚いていた。家ではやっていないという。しまった、秘密だったのかあれは、と思って、それ以上は聞かなかった。(が、それにしても、6歳の子が、家族に知られずに手品やふしぎなお話を習得することが可能だろうか?)

お迎えの時間の関係で、彼女に会える曜日はだいたい決まっている。その日は心のどこかで「今日はあるかな。」と楽しみにしている自分がいる。楽しみだけど、でも期待しすぎないように。平静を装いながら、保育園の玄関を通る。

彼女はまだ小さいのに、もう自分の秘密をもっている。そしてそれを時々こっそり見せてくれる。とてもふしぎで、そして素敵な子だ。



ぼくなんかいなければいい

先日来、何人かの友人がSNSでこの記事をシェアしている。

blogos.com


これを読んで、少し前にあった次男とのやりとりを思い出した。

次男はその日、兄の文房具を持ち出してこちょこちょいたずらしていて、止めても止めてもなかなかやめなかった。「やめて」とくりかえして言っても聞かない。夫が「そっか、きみは話が聞けないんだね」と言ったとたん、それまでにやにやふざけていた次男が急に、

「お兄ちゃんばっかり!ぼくなんていなければいいんだ!!」と、言ったのだ。

もう、びっくりした。その場は「お兄ちゃんばっかり」的なシーンではなかったし、「ぼくなんていなければいいんだ」の言葉の重さは、起きてることとあまりにも不釣り合いに見えた。

夫が「そんなこと間違っても言うなよ」と言うのと、「弟くん、それほんとうに思ってる?」とわたしが聞くのがほぼ同時だった。

わたしのほうが一見「聞く感じ」にはなってたと思うけど、でも、彼の言葉を正面から受け止めてないところは一緒だった。次男はその後本格的に怒り始め、そこからのやりとりでようやく「お兄ちゃんばっかり」の根っこを探り当てることができた。

この記事の中には自傷行為をする子どもたちに対する大人たちの「甘えている」という反応が紹介されていた。また、「死ね」が口癖の子に対して「ユーモラスに」そんなこと言わないでよ、と声をかけて抱きしめる、という方法も(記事では「問題のある方法」として)紹介されていた。

記事に出ていたこれらの反応と、自分たちが次男に返した言葉は、おそらく同じ種類のものだという気がした。どこかに、子どもたちの表現を「かわす」「ふさぐ」感覚が入っているように感じる。

とっさに「かわす」のはなぜか。わたしの場合でいうと、たぶん、こわいのだ。子どもの声を、本当の意味でちゃんと受け取る、ということが。ちゃんと聞いてしまったら、もしかしたら自分はそれを受け止めることができないかもしれない。親なのに。(この「親なのに」を外せば、きっともっと聞けることは増えるんだろう、と思うんだけど、なかなか難しい)

そう思ったら、「まだいのちの大切さを知らないたかだか6歳の子が、どこかで聞いたことを言っているだけ」と思い込んだほうが、はるかに楽だ。そして、「そんなこと簡単に言っちゃいけない。あなたは大切な人なんだから」という風に、論点をすりかえた方が、楽なのだ。

でもそうやって「大切だよ」と言葉でねじふせた瞬間に、大切にしてほしい、という声を潰すことになる。

その、「ぼくなんていなければいい」から数日、次男の様子を見ていたら、それまで見えてこなかったものが見えてきた。なんだかすごくはしゃいでるけどちょっと背中のへんが強ばってる感じだな、とか、今は表情も呼吸も落ち着いてるな、とか。あ、今表情が陰ったな、とか。そういうことを感じ取れることが増えたかもしれない。そして、そんな風に感じ取れているときは、言葉でのやりとりも無理がない。スムーズに流れていく。

積極的に話しかけてくる長男と話している時間のほうが長い、とか、ここのところ長男の用事が増え、それに次男をつきあわせることが増えている、とか、いくつかの発見もあった。

やや耳(&言葉)頼りになりがちな子どもとのコミュニケーション。もうちょっと他の感覚も使っていけるようになるといいな、と思っている。

理科の問題、どう教える?(文系母編)

小3息子が、理科の問題を前に、うーんうーんと唸っている。

「モンシロチョウの幼虫が食べるものを選びなさい」という問題。例として、アブラナとダイコンが出ていて、もうひとつを選びなさい、というもの。「バッタの特ちょう=虫」の男にはハードルが高い。

こういう、知ってないとどうにもならない問題を教えるのって難しいよなあ、とまず思う。どんなアプローチするのがいいんだろう、と思いつつ、「まあまずはアブラナとダイコンの情報を集めて共通項を見つけてごらん」と言ってみる。調べようにも植物図鑑的なものがないので、国語辞典で調べる息子。(と、うちの本棚やっぱり相当かたよってるな…と内心で思うわたし。)

しばらくして、息子は「ふたつともアブラナ科だった。ということは、アブラナ科の植物を食べる可能性が高い」と、選択肢に上がっている植物を、端から調べ始めた。なかなかにまどろっこしい。他の選択肢は「ミカン」とか「ニンジン」とかなので、(この選択肢だったらコマツナ一択…!)と心の中でつっこまずにはいられない。ミカン、木だし…

結局、息子はどうにかこうにか答えにたどりついた。たぶん、「コマツナアブラナ科である」ということは忘れないだろう。しかし、コマツナの形状や、どんな風に生えているのかを知るのは次のステップだ。(一応冷蔵庫に入ってたのを見せたけど、へーほーふーん、という感じだった…涙)

「分からない問題にぶつかったらできる限りで情報を集める」とか「その情報を並べて比べてみる」「共通点、相違点について考える」といった、考え方の手順みたいなものは、わたしでも手渡せる。でも、わたしが理科系だったり植物好きだったりすれば、もっと関心をもてるようなアプローチができるのかもな、と、ふと思う。

もちろん親が全部カバーする必要はぜんぜんないので、そこは学校の先生におまかせすればいいのだろう。でも、子どもが「おっ、面白い!」って思う瞬間に、もっとたくさん居合わせられたらいいのになあ、とも、やっぱりどこかで思っているのだ。

図工の先生

兄の学校の公開日。
図工の授業を見に行ったら、図工専科の先生の言葉がいちいちかっこよかったのでメモ。

①「こうだろうと思って描かないで。見て、見て、見て!」
クロッキーの授業。文房具や人物モデル(先生と、立候補した子ども)を5分とか7分とかで描くというもの。教室を回りながら、先生が何度も「こうだろう、って頭の中で思ったことを描くんじゃなくて、見たものを描くの」と声をかけていた。「今よく見て。ここからだと目は片方しか見えないでしょ?そうしたら片方だけを描くの」「頭の中を描くんじゃないの。見えたものを描くの。」「見て、見て、見て!」と、いろんな子に、くり返しくり返し。

②「今何人かの子が悲しい気持ちになった」
女の子がモデルになって前に出た時に、独り言みたいにからかいの言葉を投げた子がいた。先生がすかさず、「今あなたが何となく投げた言葉で、何人かの人が悲しい気持ちになったことに気づいてる?」と言葉で制した。「投げた」っていう言葉と、「◯◯さんが」じゃなくて「何人かの子が」っていう言葉。

③「待ってくれるかな」
クロッキー中。先生がひとりの子の机の前を通りかかって視界を遮る形になったときに、その子がすかさず「先生見えません」と言った。先生は、さっと通り過ぎてから「うんごめん。だけどさ、一瞬じゃない?先生が通り過ぎるの。待ってくれるかな、そういう時」ってさらっと言っていた。

どれも、何よりその先生の人となりが分かる言葉だと思った。一人の人が、その場で感じたことを言葉にしている感じ。(学校の先生って案外そういう発話が少ないんじゃないかな、とも思う)

そういえば、わたしのこれまで出会ってきた図工(&美術)の先生も、他の教科の先生とちょっと違う雰囲気だったな、と思う。自由さとか、大人っぽさとか、本質を知っている感じとか。

「頭の中を描くんじゃない、見て!」なんて、なかなか聞けないけっこうだいじな話だと思う。いい話をしてもらってるんだな息子は、と思った。そういうのを湯水のように浴びて、そして忘れる(笑)というのが初等教育のベストな形なんだろうなー。

困らないように

次男の保育園の保護者会で、近隣小学校(兄の小学校)の校長先生からお話を聞いた。

「就学前に身につけておいてほしいこと」の話がメインだった。あいさつと返事がしっかりできるように、言葉遣いを丁寧に、自分の非を素直に認めるように、早寝早起きできるように…etc。「これができていれば、学校生活には困らないと思います」と校長先生。

うーーん、と思う。ひとつひとつに異論はないんだけど、どうも、聞いててテンションが上がらない。配布されたプリントには「楽しく学校に通えることが一番です」と書いてあるんだけど(一瞬ブラックジョークかと思った…)、これをできるようにしておいてください、というリクエストばかりで、「あー学校楽しみ!」という感じにならないのだ。他のお母さんたちも、こりゃ大変だという顔をしている。

やや固い雰囲気の中で、ふと、(この先生は子どもたちをどんな方向へ導いていきたいのかな)と興味がわいた。学校教育目標でもいいんだけど、どちらかというと個人的な思いを聞いてみたいと思った。そこが見えないから、なんかつまんない、息苦しい、と感じるのかもしれない。

そう思って質疑応答の時に聞いてみたら、校長先生からは、「社会に出た時に困らないような力を身につけさせたいです」という言葉が返ってきた。「困らないように」2連発だ。学校で、社会で、困ら「ない」ようにして、何が「ある」ようにしていきたいのか。…聞きたかったけれど、聞けなかった。

校長先生の回答を聞いて、「これじゃあテンション上がらないよなー」と思った。でも、わたし自身が「困らないように」を行動の基準に置いているときだって、たくさんある。これは、外側から単純に責めることはできないんじゃないか?

そんなことを考えながら帰宅したらちょうど、小3の兄が「下校班でのきまり」を作成中だった。「〜しないこと」全20か条のべからず集だ。教育の効果は恐ろしい。


校長先生とわたしは同じなんだと思う。(そしてもしかしたら兄も)。
実は来ないかもしれない「困る」に対して、防御したり回避したりしようとする。それとは別に心のどこかで「これがいい、こっちがいい」という願いは持ってるんだけれど、それは言葉になっていないし、前に出てきていない。そうやって、本当はあるはずの宝物が、いつのまにか埋もれていっている。

その、表現していない願いの部分を、これから話していきたいと思う。校長先生とも、担任の先生とも、親同士でも。「学校創立の志」なんかなくて、ビジョンが見えにくい公立小学校だからこそ、そういう対話が根づいたら面白くなるんじゃないかな、と妄想している。

お母さんに期待すること

今わたしの勤めているNPO法人では、年に数回、自分のワークとライフの棚卸しをする機会がある。

団体のミッションビジョンに対する考えや、それを業務の中にどう落とし込み、達成までどんな道のりを描いているのか、個人としてのミッションや大切にしたいことなどをワークシートに記入し、シェアしあう。ひとりひとりが抱えているもの、見ている方向をまるごと知る/知ってもらうことの効果は計り知れないものがある。

個人のミッションについての項目の中には、母として、子ども達に対し、どんな貢献をしたいか、そして、子ども達自身がわたしに対してどういう役割を期待しているかという設問があった。そこで子ども達にヒアリングしてみることにした。

とはいえ「お母さんに期待することは何ですか?」って聞いても答えにくいだろうと思い、「これからやりたい、やる必要があると思っていることで、お母さんにサポートしてほしいことを教えてほしいんだけど」と投げかけてみた。ふたりとも、ん?という顔をしている。

「お母さん、なぜそれを知りたいの?」と兄。(兄は、質問の前提や枠組みをクリアにしてから答えたい人なので、よくここを問われる。)

兄に問われて、なぜだろう?と考える。「書けって言われたから」という身も蓋もない言葉が一瞬よぎる(笑)。少し考えてから、「お母さんは、君たちふたりにこうしてあげたい、こんな風にサポートしたい、って思ってやってるけれど、ふたりはどう思っているのかを知りたい。それはいらない、っていうのもあるだろうし、これをしてほしい、っていうのもあるだろうし」というようなことを答えた。

すると兄からは、「お母さんは教育に興味があるので、いいと思ったことをやってくれればいいと思う」というすごいメタ視点の回答が来た(笑)。わたしがどこか「実験ー観察」のテイストを子育てに持ち込んでいることを、兄は感じ取っているのかもしれない。ちょっとはっとさせられた。

弟からは、「お・か・あ・さ・ん!って感じでいてほしい」と、単刀直入な回答をもらった。「お・か・あ・さ・ん」って言いながら、わたしの体をかたどるような仕草を両手でしていて、それが「あなたのままで」と言われたような気がして嬉しかった。

実は、「怒らないでほしいー」とか、「テレビの時間を増やして」とか、そういう感じでリクエストが来るのかな、とちょっと思っていたのだ。別にそれでもいいと思っていたけれど、そうだったらちょっとがっかりしちゃうかも、なんて思っていた。

そうやって、勝手に子どもを小さく扱っている時に限って、彼らは予想のはるか上にボールを打ち込んできてくれる。そして、そんなパワフルな子ども達に、わたしは何度も救われているんだと思う。