子ども観察記+α

兄(10歳・小4)と弟(7歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

自業自得その2

昨日の続き。
hattatsukasa.hatenablog.com


そんな訳で弟くんがなくしてしまったしっぽを夜更けのテンションで作り直したわたし。割と意気揚々とw、朝起きてきた弟くんにできあがりのしっぽを見せた。

布はなかったんだけど、お母さんの服でつくったよ、と声をかけると、弟くんは困惑した顔になる。

「・・・これは持って行きたくない。」

と返ってきて、がーーーーんとなった。まじかー、と思いながら「なんで?」と聞くと、なんでっていうか、なんかびっくりしてるんだよー、という返事。

あああ、そういうことか・・・。わたしは、自分が弟くんの領域を侵してしまってたことに気づいた。

弟くんは昨日の時点で、「しっぽを壊して(&なくして)困った」ということは表現してたけど、「新しいのを作ってほしい」とは言ってなかった。動揺と不安が大きくて、「じゃどうしようか」と対処法を考える地点までは、行ってなかったのだ。それを、彼が寝たあと、わたしが勝手にいろいろ先回り(ですらないんだけど!)してしまった。いろいろすっ飛びすぎてる。びっくりしたよなそりゃ。というか、まあ、ちょっと引くよね・・・。

ついで、自分のことを振り返る。「なんか(自分が)面白くてつくっちゃっただけなのー」ってあの時は思ってたけど、でもさっき「もっていきたくない」って言われたら、がーーんとなったのだ。喜んでほしいっていう期待があったし、喜ぶはず、って完全に思い込んでた・・・きゃーーー(恥)!!

「おお、そうかー、なおが喜ぶかと予想してつくってみたんだけど、びっくりしたの」、と声をかけてみる。じゃあ、今日の総練習はしっぽなしで行く?と言うと、
「先生になくしましたって言う・・・今日お母さんもういちど布でつくってくれる?」と、明確なリクエストが返ってきた。

そんなこんなで子どもたちを送り出してから、昨日からの出来事を考えた。

サポートしたいと思ってたんだけど、方法が違ってたんだな、と思った。

改めて、弟くんが必要としてたサポートはなんだったんだろう、と思う。昨日泣いている弟くんに、「どうしようか」と問いかけても返事はなかった。「なくして困った、明日恥ずかしい思いをするのが怖い」という気持ちをもう少しじっくり味わうこと、その動揺や不安に対して共感されることを、弟くんは必要としていたんだろう。そしてわたしは昨日、そのサポートはできなかった。mtgもあったし、夜遅くなってからそういう話を聞かされるストレスもあったし。

昨日のブログでわたしは「甘いのかも」という言葉を使った。その時には「優しくしすぎてしまう」というニュアンスで使っていた。でも、「甘い」ってそういう意味じゃない。見取りの甘さだ。弟くんのニーズがどこにあるのかを見てなかった。自分の状況(つかれてるとかストレス感じてるとか)の認識も甘かった。

相手がしてほしいことと自分がしてあげたいことはちがう。

できることはできるし、できないことはできない。

当たり前なことなのに、わたしはこの2つを忘れがちだ。それを思い出させてくれた弟くんの率直さと、しっぽに、ありがとう、と今思っている。

自業自得だけど

運動会でつかうねずみのしっぽがこわれちゃったー、持って帰ろうと思ったんだけど、どこに行ったかわからなくなっちゃった、と、夜になってから弟くんが泣き出した。時計をみるともう22時すぎだ。

ちょうどオンラインmtg中で、困ったなあーと思いつつ、中座して話を聞く。

明日総練習があって、その時には耳としっぽをつけないといけない。つけないとねずみになれなくて、ねずみじゃないのに踊るなんて、きっとみんなに笑われちゃう。と泣きながら言う。(なんだかややこしい理屈だ)

困ったねー、と共感というより同感しつつ、それ夕方のうちに言ってくれたらなんとかできたのかもしれないけど、今からじゃ無理だなあ。明日はしっぽなしでやるしかないねえ、と話す。弟くんは、泣き顔のまま寝てしまった。

mtgに戻りつつ、つくりなおしかー、とがっくりくる。裁縫が苦手なので、四苦八苦しながらつくったのだ。第一、材料を買い直しに行く時間だって、今から取れるのだろうか。運動会は今週末なのに。

ふと、たんすの中に、着古した黒のスパッツ(笑)があることを思い出した。裁縫箱の中には、マジックテープも、幅広ゴムもストックされている。綿もこの間の残りがある。

気がついたら、スパッツを取り出してじゃきーんと切っていた。切って、細長い袋状に縫い合わせる。中に針金と綿をつめていく。もう作り方を書いた学年便りは捨ててしまっているので、あいまいな記憶をもとに、作業を進めた。

さっき、しっぽ2号が完成した。もう日付が変わっている。

弟くんをかばってやりたいという気持ちよりも、お、これでつくれちゃうかも?という好奇心の方が強かった。まあ、魔が差した、としか言いようがない(時間的にも)。

「教育的」には、「甘い」のかもしれない。「失敗してもお母さんがなんとかしてくれる」と思うようになったら困る、のかもしれない。

そもそも弟くんがしっぽをなくしてしまったのがいけなかった。ちゃんと管理すべきだったし、なくしたんならもっと早く言うべきだった。だから明日総練習で困ることになったって、しかたない。自業自得だ。

理屈ではそうだ。でも「自業自得」な体験なんて、どうせこの先も何回も、うんざりするほど起きるんだろう。ならばそのうちの一回が「お母さんがなんとかしてくれた」体験になったってまあいいよね、と、子どもにも自分にも甘いわたしは今、頭の中で言い訳している。
 

がんばりすぎ

昨日、午後久しぶりの友達と会った。彼女の近況をたくさん聞くつもりが、気がついたらわたしがしゃべり倒していた。(とても聞き上手な人なのです)

はーすっきりした、ほんとにありがとう!と言って別れた。本当にとりとめもないおしゃべりだったんだけど、帰り道に、むくむく元気を取り戻しているのを感じていた。

夜も熟睡して、今朝。

ゆうべ「宿題は朝やるー」と言って寝た兄くんが起きてこない。やり残しがあると必ず起きてくるタイプなので、気になって何度か起こしてみたけど起きないので、まあいっか、と思ってそのままにしておいた。

がばっと起きてきたのは7時すぎ。すでに半泣きだ。なんで起こしてくれなかったのーから始まり、昨日お母さんが宿題明日にしたらって言ったから!(←言ってない)とかいろいろ言いながら、手は書き取り練習をしている。

剣道の試合が近くて、昨日も居残り練習をして遅くなっていた。運動会間近で、暑い中、毎日練習している。今日は塾のテストもある。なんかいろいろありすぎて、キャパオーバー、みたいな感じなんだろう、と思った。(まあ剣道の前はたっぷり遊んでたんだけど、それはそれ。)

「もうやだー」と言って書き取り練習から離れ、ふとんに転がった息子のとなりに一緒に転がる。運動会の練習、毎日2時間もあるんだ。人工芝で暑いし、水飲み場混んでて飲めないし。なんか振り付け途中で変わるしさー。繰り言が続く。それをひとしきり、聞いていた。

「うーん、ほんとに、おつかれさん」とねぎらうしかない。宿題遅れて出します、ってお母さん一筆かこうか?と言ってみたけど「は?」って顔をされた(真面目・・・)。

息子はしばらくごろごろしていたが、「あ、もう時間」ときっぱり言って、宿題に戻って行った。朝ごはんは5分で食べて、時間になると弟たちを連れて出かけていった。

兄くんの小さい爆発を、受け止められてよかったな、と思った。明らかに昨日の友達とのおしゃべりが効いている。自分が聞ける状態だったから、「おお、そうかーうんうん」って言えたけど、ぱんぱんな状態だったら、いろいろ反応しまくっていただろう。

もしかするとそれは逆で、わたしが聞ける状態にようやくなったから、兄くんは気持ちを外に出せたのかもしれない。「あーもーつかれたーーー」って。ぱんぱんになってた「言いたいこと」は、わたしも兄くんもおんなじだったのだ。

がんばりすぎだよ、がんばりすぎ。泣き顔の兄くんに夫がかけていた声を思い出す。うん、ちょっと、がんばりすぎてたなあたしたち。

短歌の子ども

1年ほど前から、短歌の会を開いている。お互いの話を聞き、その話をもとに(したり、途中からわいてきた別のことをもとにしたりして)歌に起こし、鑑賞しあう会だ。

毎日仕事だ家のことだと忙しくしていると、大きな出来事は覚えていても、日々の暮らしの中で「あ、面白い」と思ったことや、そこに通奏低音的に流れている気分のことは、どんどん忘れてしまう。短歌の時間は、わたしにとって、こぼれてしまっているそういうものを拾う時間になっている。

東直子さんという歌人がいて、わたしはその人が歌う子どもの歌が好きだ。たとえばこんな歌。

夕立に帽子を濡らし帰りつく子どもは魚の匂いに充ちて(東直子

「魚の匂いに充ちた子ども」という言葉の中には、ぎょっとするような、得体のしれないものに対する感覚があると思う。その得体のしれなさにはたと目を留めている母親の視線を、わたしは東さんの短歌から感じる。

「母親とは、子どものことをよくわかっている存在である(べきである)」という誤解がわたしの中にはあるんだけれど、東さんの歌は、その誤解を気持ちよくけとばしてくれる。


子どもたちは、わたしと姿形が似ていて、わたしの用意した服やごはんや本やおもちゃに囲まれて育っている。だけど、わたしとは違う人間だ。わたしとは違う体、違う時間を持ち、違う体験を重ねている。

そのことに気づくたび、わたしも、ぎょっとしながら安心しているのだと思う。

約束したから。

今朝の出来事。
元気よく学校へ出かけたと思った弟くんが、「帽子わすれた〜」と言いながら戻ってきた。それで出かけていったと思ったら、しばらくしてふたたび玄関チャイムがなった。

ドアを開けるとやはり弟くんだ。やや息を切らしながら、今度は

「図書館の本わすれた」

という。

けっこう学校の近くまで行ってから戻ってきたのだろう。よく戻ってきたねー、と言うと、

「先生と約束したから」

と弟くん。本当は昨日返却する予定だったのを忘れてしまい、先生と「明日はもってくるね」と約束してきたのだという。

二回も戻ってきたのでほとんど遅刻ギリギリだったんだけど、本を手に、弟くんは淡々と戻っていった(途中からちょっと小走りだったけど)。

しかられるから、とかじゃなくて、「約束したから」なんだなあ、と思った。その、「約束したから」という言い方が、ちょっと大人びて、いい感じだったのだ。「じゃあ行くね」と淡々と戻っていく姿も。

弟くんにとって、担任の先生は「この人との約束を大切にしたい」と思える相手だし、遅れていったとしてもこの人はわかってくれる、と信じられる存在なんだろう。

入学一ヶ月、先生が日々どんな関わりをしてくださっているのかが見えるような気がした。

うるさいなあ。

兄くんが塾から帰ってきた。21時を回っている。なんとか22時半までには寝てほしいと思うと、さっさとご飯食べて宿題やってお風呂はいって・・・とわたしの頭の中が一気に忙しくなる。

そういう時に限って、ご本人はなぜか弟の教科書を取り出して眺めてたり、PCで紙飛行機の作り方調べはじめてたり、「それ今じゃないとだめ?」とききたくなるようなことをし始める。

本当は、そういう、どうでもいいようなことをする時間って大切だと思う。でもそれを尊重できないこの日々のスケジュール感・・・気づいたら悲しい気持ちになっていた。無力感。自分は望まない方向に進んでいるんじゃないかという不安感。

不安感を回避したくてちょっと強く出るのがいつものわたしのパターンだ。だから、いつもより口をはさむ回数が多くなってたかもしれないし、声もとがっていたのかもしれない。

背中を向けてわたしのお小言を聞いていた兄くんが、一言「うるさいなあ」と言った。彼がわたしに対してそんな風に言ったのは、たぶん初めてだ。「よう言うた!」って気持ちと「なんだと!?」という気持ちが両方押し寄せる。

「言われたくない、ってことだよね」と聞き返すと、うん、とうなずいた。さらに聞くと「自由が制限されているように感じるから」と返ってきた。子どもは的確だ。

実をいうと、わたしも同じ気持ちでいた。彼の自由を制限すればするほど、自分の自由も制限される。滔々とただ流れているはずの時間が、いつのまにか細切れになって、ただタスクを完了させるための目盛りになってしまっている。そのことに、たぶんわたしは一番苛立っていた。

「お母さんも実は、自由が制限されている感じがしている」と言ってみたら、顔を上げた兄くんと目が合った

それから、少し話をした。

「宿題はじっくりやりたいんだよねー。じっくりやると遊びに近い感じになるから」と兄くんは言う。じゃあ他にカットできることあるかなあ、と聞くと「お風呂」と即答する。えー、お風呂カットはちょっとなあ、とわたしが難色を示すと、お母さんはお風呂大事だからねえ、とニュートラルな返事が返ってきた。

譲れないポイントは彼の中にも、わたしの中にもある。それはいつでも等価だ。だから時々こうやってそのポイントを確認しあいたい。「うるさいなあ」という言葉からではあったけれど、そんな時間をもつことができたこと、よかったと思う。

分けっこしよう。

5月の下旬に運動会がある。1年生はミッキーマウスマーチを踊るとのことで、ねずみのしっぽを8日までにつくってください、と学年だよりに書いてあった。

「用意するもの」の欄には「黒いフェルトまたは布50cm×10cm、綿、針金、マジックテープ」などと書いてある。一辺が50cmもあるフェルトが存在するんだろうか。あったとして、10cm単位で売ってくれるものなんだろうか。

ともかく連休2日目に隣町の手芸屋さんへ行ってみた。「黒いフェルトって・・・」と言ったとたん、「あ、しっぽでしょ!」とお店のおばさん。昨日から次々と、「50cm×10cmのフェルトまたは布」を求める人たちがやってきているという。

フェルトだと裏に返すの大変だから布の方がいい、針金はうちのは高いから通りの先の金物屋さんでね、マジックテープはこれでいいでしょ、とおばあさんがちゃちゃちゃっと見繕ってくれて、無事材料が揃った。

布は30cm単位だとのことだったので、30cm買うことにしてお会計を頼んだら、おばさんが言った。

 

「お友達どうしで材料分けたら早いのに、そういうことしないのねえ最近は。みんな余分に買って余らせちゃうの、もったいないわよ」

なんだかぎくっとして、お会計の手が止まった。そうか、なんで思いつかなかったんだろう。

そもそも材料の単位がわかってなかかったし、だから一人分だと不経済だろうな、という見立てもなかった。当然、誰かと相談してまとめて買おうという発想もなかった。おばさんの時代の母親たち(というのがイメージで浮かんだ)と、わたしはたぶん全然違う。

 

なぜか「負けた!」って気がして、気づいたら

「ちょっとほしい友達いるかもしれないので、マジックテープもう一本余分にもらえますか?」と言ってしまっていた。

お店を出てから後悔した(笑)。保育園の時からの友達は何人かいるけど、「誰かひとりに声かける」となるとあんがい難しい。みんなもう材料揃えてるかもしれないし、ひとりひとり聞いてく?受け渡しはどうする?考えると、だんだん面倒になってきた。

みんなでまとめて買っちゃえば、無駄もない。でもこんなふうに、手間はかかる。その手間のかかる感じを無意識ではつかんでて、それを回避していたのかもしれない。だから最初から「一人分」だけ買うつもりでいたのかもしれない。

数分迷って、クラス役員を一緒にやっているTさんにLINEしてみた。「まだ買いに行ってないです!ぜひ!」と返事がすぐに来て、そのやりとりで受け渡しについても決めて、余分に買った材料は無駄にならずに済んだ。

それが連休の初めのできごとで、今日は最終日。日付も変わろうとしているこの時間に、ようやくしっぽを作り始めている。Tさんも同様だったらしく、21時すぎに「つくりましたか?わたしはまだ」とLINEがきた。今、ふたりで「綿が入らない」とか、「眠くなってきた」とか、「というかそもそもこれ画用紙じゃだめだった?」などとぼやきつつ、それぞれの家で悪戦苦闘している。

材料を分けっこしたら、つくる体験も分けっこできた。ただ単に面倒なだけだったはずのしっぽづくりに、今、なんだか心楽しく取り組んでいる自分がいる。