子ども観察記+α

兄(9歳・小4)と弟(6歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

勉強はなぜするの、と聞かれた時に

「分数なんて、大人になってから使う?使わないよねーなんでやるの」と、分数のプリントに飽き飽きしている長男が呟く。新しい発見や面白さのある勉強ではなく、もう知ってて(でも時々間違えたりもして)、その精度を高めることが目的になっている類の勉強について、長男は頻繁に不満を表明する。計算とか、漢字とか。

「分数は、使うんじゃないかな。料理だと2/3カップとかよく出てくるし」と、とっさに口から出てくるけれど、この、「算数は生活に使うから必要」というのはわたしにとって完全に嘘、または仮説(40年間立証してないけど)だ。自分の生活を振り返ってみても、頭の中で計算はおろか、数字を扱うことがあまりない。あったところで、ネット検索や電卓で事足りる。算数嫌いの人間は、とにかく数字、計算の類を回避するようにできている。

でも、小学生の頃の計算練習が完全に無駄だったかというと、そうも思えない。いくらわたしだって、する計算はしますしね。カゴの中身をざっくり見て今日は3000円で足りるわな、とか、子どもの学年4クラスだったら35かける4でざっと140人か、とか。同じように、三角比や微分積分が必要で、日々使っている人もいるだろう。「学んだことが役立つかどうか」を決めるポイントは、学んだ内容にではなく、学び手の体験の側にあるのだとつくづく思う。

さて、それって何に似ているだろう・・・と考えて一番近いのは「修行」とか「写経」かもしれないと思った。

漢字の書き取りも、計算も、写経に似ていると思う。自分の書いていることの意味も、「それを書くということの意味」すらも、すぐには手にできない。それが実際役立つ日には、学んだ日のことなんてすっかり忘れて、「もともと知ってた」ぐらいの感覚になっているんだろう(し、そのくらいでなければ「身についた」とは言わないだろう)。「身についた」ものを生かせるかどうかは、その人の体験の広がりや深まり、その可能性に左右される。

とはいえ、「いつか役立つから」では納得できないほど、小学生の生活は「おべんきょう」に満ちている。修行、苦行、がまんの時間。もう知ってる、と自分が思っていることを書き続ける空しさ。「君の世界が広がれば広がるほど、勉強することの意味も広がるんだよ」的な答えが、しっくりこない時ってある。

結局、息子の問いかけに対しては、
「こうじゃないかな、という仮説はいくつかあるけど、今はすっきり答えられない」と正直に答えた。聞かれたからって答えが返ってくるとは限りません(笑)。「お母さんに聞いてみたけどはかばかしい回答が得られなかった」というのも、悪くないんじゃないかと、思う。