子ども観察記+α

兄(10歳・小4)と弟(7歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

新しいブログはじめました

新しいブログをこちらにはじめました。「子ども」というモチーフからは離れますが、「育つ」ということについてはひきつづき注目していきたいと思っています。

micandescitrus.hatenablog.com

子どもの観察記録、終了します

昨年度末あたりから、子どもたちの成長、親としてのわたしのフェーズの変化により、子どもたちの日々の様子をオープンに綴る、という形がそぐわなくなってきました。細々と綴ってきたブログですが、このあたりでいったん閉じたいと思います。これまで読んでくださったみなさま、ありがとうございました。書くことは好きなので、また別の形でお会いできればと思います。

勝手にできない

長男と、食事のことで小さな諍いをした。
早炊きで炊いたご飯が好きじゃなくて、食べたくない彼vs.どうにか食べさせたいわたし。あーだこーだ言い合っているうちに、もういろいろと、いやになってきた。

「もう勝手にしなさい!」の「か」の辺りでちょうど沸かしていたお湯がしゅんしゅんいいだした。むっとしたままお茶を淹れに立つ。

お茶を淹れながら、言いかけた「勝手にしなさい」を持て余していた。

勝手にしなさい。勝手にすればいい。あたしはもう知らないから勝手にすればー。そんな風に心の中で悪態をつきながら、彼は決して「勝手」にはできないのだ、ということに気づく。子どもだから。好きな材料で自分の気に入る料理をつくることもできなければ、好きな店で食事することだってできない。今この場で「うるさいな!」とかいってお財布もって飛び出すことだって、まだできない。できるのはせいぜい「食べたくない」って言うことぐらいで。

そう思ったら、「勝手にしなさい」とは言えなくなった。先に冷静になった息子が、「お母さん、ぼくの話のどの部分が嫌だったの?」と問いかけてくれて、急速にクールダウンする。そうだよね、嫌だった。怒ってたし悲しかった。…でも、何がだろう。

「食べたくない」と言われたことの何があんなに気に障ったのか。「出されたものは美味しく食べるべし」的なわたしの信条にひっかかったからか。夜のうちにお米のセットをしてなかった自分を内心責めていたからか。それとも単純に、差し出したものをノーサンキューされたことが悲しかったのか。

「勝手」にできることの少ない、大人に比べたら本当に不自由な境遇にいる息子が土壇場で投げてくれた問いを、数日経った今も、心の中に持ったままでいる。


温かく満たされているとき

このところ寒いせいか、自称ネコ科の弟くんはてきめんに夜の剣道のお稽古に行きたがらなくなっている。「じゃあ休めばいいんじゃない?」と思うんだけど、目下のところ「皆勤賞をもらう」のが大きな目標なので、首をたてに振ることはない。振ることはないんだけど、そのたびになんやかんやと拗ねたり怒ったりする。そうこうしているうちにお稽古開始に間に合わないんじゃないかとこちらまで焦ったりイライラしてきたりと、いつもちょっと心臓に悪い時間になっている。

今日もいつもの、そんな日のはずだった。

夕方から、自宅でのマッサージをお願いしていた。温まってあちこちほぐれて、なんかもうお母さんねむたくなってきちゃったよ〜・・・みたいな頃になって、突如、隣の部屋から弟くんの泣き声が聞こえてきた。それに対し、兄くんが何か言ってる声も聞こえてくる。

しばらく、目を閉じたまま聞いていた。聞いていて、ふと「あんなにかわいい声だったのか」と思った。泣いているのに、困っているのに、どこかのんびりした響き。あんなに幼い声に、わたしは普段おびやかされているのか。

泣き声を聞いてから反射的に速くなっていた心拍が、だんだん治まってくるのを感じた。

自分の体が温かくて快適で、満たされた感覚になっていると、同じことでも聞こえ方が全然違う。こんなに違う。そのことがよーくわかった。

とはいえ寒い日はまだまだ続く。外側の環境を整えること(薄着しないとか早寝早起きとか、今日みたいにスペシャルケアをお願いするとか!)と同時に、外側の環境に依らずに自分の内側を温かく満たしていくことも、同時にやっていく必要があるんだろうな、という風に思っている。




場所が問題なんじゃない

兄くんが中学受験用の塾に通い始め、受験するかもモードになって約1年。塾の先生のお勧めに従い、いろんな学校の説明会やら文化祭やらに行ってみた1年であった・・・。数えてみたら、1年で10回以上行ってた。(気楽に行くぶんにはけっこう楽しかった。)

いろいろ参加してみての結論は、「まあどこも似たり寄ったりなんだろうなあ」という感じ。私立中学校の受験を考える人がよく見るという某掲示板には、「熱望してます!」とか「もうここの学校以外には考えられん!」みたいな熱い投稿もよく見かけるけれど、そこまで肩入れしたいような学校もなければ、これはちょっとなあ、というような学校もなかった。どこも素晴らしいと思いますよー入れていただけるんなら(←重要)という感じ。

そりゃそうだ。学校は学校なのだ。どんなに特色があるっていったって、そこには先生がいて生徒がいて、学習指導要領に(程度の差こそあれ)準拠した授業を行なっている、という基本線は、崩されることはない。集団生活ゆえのトラブルもあれば、たまには心の震えるような素敵なことも起きるだろう。たぶん、どこの学校でもそれは同じだ。

試しに兄くんと「こんな学校だったらいいな」と望む要素を書き出したことがある。書いているうちに、それはもう学校に対する願いというよりは、まあ別に今からでもやればいいよね自分で・・・みたいな感じになって、笑ったことがあった。「テーマを決めて研究がしたい」「グループワークしたい」っていう彼の望みは学校でも学校以外でも満たされる機会はいくらでもあるし、「制限なく没頭する時間が取れるといい」「先生が嬉しそうに授業していたらいい」っていうわたしの願いは、「家庭の、親の、自分のあり方」という形で自分に返ってきたり、する。わたしは嬉しそうに仕事をしてるか、子どもと遊んでるか、没頭してるかっていうね(笑)。

場所や他人が問題なんじゃない、という感覚を、兄くんもわたしもつかみつつあるのかもしれない。

わたし自身、「学校」に対する願いがずっと強かったという自覚がある。小学校から大学までの12年間、教員としての10年間、ずっと「ここがもっといやすい場所ならばいいのに」と願いながら、自分の「いやすさ」について大して突きつめることもなく、いろいろトライしたり傷ついたりしてきた。「学校」そのものを、なかなか振り向いてくれない恋人のように扱ってきたようなところがある。兄くんの受験問題についても、期待してはダメ、と言い聞かせつつ(笑)、どこかで「理想的な学校」を探してた。理想を大してつきつめることもなく。だからこそ10回もあちこち足を運んだんだと思う。

でももうそれも終わりに差し掛かっているのかもしれない。いいよーどっちでも、って心から思うし、それと同時に、不完全な「学校」を通じて息子たちが日々してくる体験を興味深く聞く自分もいる。楽しいことだけじゃなく、嫌な思いも、失敗も、いっぱいさせてくれてありがとねー、と思っている。

友よ、君は教育してはいないだろうか(ヘッセ「シッダルタ」感想)

年末年始の帰省中にヘッセの「シッダルタ」を読んだ。インドの求道者、シッダルタの、ほぼ一生の物語だ。(ちなみにお釈迦様=ゴータマ・シッダールタとは別人。)

読み返すたびにヒットポイントが違うんだけど、今回ぐっときたのは、シッダルタが老境に差し掛かってから、自分の息子と暮らすようになる日々の話だ。

慈愛をもって接するシッダルタに、息子は心を開かない。シッダルタはそれを嘆くこともなく、ひたすら静かに、誠実に関わり続ける。

そして、ある日同居している友人に、君、苦しんでいるよねー、と看破される。

愛と喜びをもって関わっているつもりがいつのまにか心配や苦しみに絡め取られている(のに自分ではそんなことないつもりでいる)あたりとか、相手への尊重がいつのまにか自分の忍耐とイコールになっているあたりとか・・・うわーんシッダルタ、わかるよー!飲もう!!(※飲めません)

尊重し、強いることなく、待とうとするシッダルタの態度そのものが「あの子をしばっているのではないだろうか」、という同居人の言葉が刺さる。その人、シッダルタに「友よ、君はあの子を教育してはいないだろうか」って言うんだよね・・・。してるしてる!わたし毎日してます!!と即答してしまう。あるがままを愛したいと思っている相手に、気がついたらいろんなことを願い、相手を縛っている自分(とシッダルタ)。

実は、ここで語られていることって、繰り返し学んできたことではあるのだ。だから、その「縛りになってしまう愛」から自由であるふりをわたしはけっこうする。わかってるふりっていうか。息子と対等でいたいと願い、そのようにふるまう、子どもとの時間を楽しもうとする、彼らの自由なふるまいを見るとほっとする、「早く巣立ってほしいわー」って言ってみる・・・などなど。でも、その皮を一枚めくったら、めちゃくちゃあれこれ願ってるし心配しているし戸惑っている。「君は息子を輪廻から護ることができると思うのか」・・・思いたい・・・

・・・よなあやっぱり、と思ったのだ、「シッダルタ」を読んだら。だってシッダルタ先輩ですらあんなに苦しんでんですもの、そりゃそうなるわー、と思わずにいられない。

「苦しまなくなる方法」ではなく、「苦しみはあるし、あり続けるという事実」について読めた。それが今回のいちばんの収穫だ。子どもが思春期にさしかかろうとしているこのタイミングで読めてよかった。

おすすめしたいのでリンク貼っときます。

岩波文庫版「シッダルタ」(ヘッセ著:手塚富雄訳)

嬉しくなっちゃう

インタビュー記事を書く仕事を時折いただいている。プロセスの中で一番好きなのが、文字起こしの時間だ。文字に移していくことでより濃密な体験になるのが嬉しい。

録音の中には自分の声も入っている。その声を聞くと、自分の「聞き方の癖」みたいなことに気づく。

録音の初めの数分間は、たいてい少しかしこまっている。「傾聴しなくちゃ」って気負いゆえか(笑)、合いの手もわりと短い。ところがそのうちにだんだん口数が増えてくる。質問だけではなく感想も言うし、笑ったり言いよどんだりもけっこうする。聞いてて「おしゃべり」に近いなあ、と思うこともある。

少し前までそれが恥ずかしくて、文字起こしの段階でほとんどカットしていた。何がかというと、嬉しさがダダ漏れな感じが恥ずかしかったのだ。その人の話を聞くのが嬉しい。言葉を交わせることが嬉しい。そんな感情のままに口数が増えていく自分の単純さが恥ずかしかった。

・・・んだけど、最近「それもまあいいのかな」と思うようになってきた。インタビューとは違うブレストみたいな場で「壁打ち」と言う言葉を使ったりする時もあるけど、わたしはたぶんどうやったところで壁にはなれない。「わたし」という人間が聞いている、という制限なり条件なり価値なりを、ないことにはできない。

そう思い、自分の話している部分もかなりがっつり起こしてみた。「やりとり」として再現することで、インタビューしていた時間の記憶がありありと蘇ってきた。

記事にする時は、おそらく「やりとり」の部分はカットすることになる。でもこの「やりとり」の感じをうまく表現できれば、今までとはまた違う良さが生まれてくる気がする。

だいじな話が聞けて嬉しくなっちゃう。そんな自分を隠さずにいることで、何か新しいものが生まれてくるかもしれない。それを見てみたいと思う。