子ども観察記+α

兄(9歳・小4)と弟(6歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

いじわるな気持ちの根っこに

お母さんリボンどこ?と、6時40分に息子が言った。リボンはもってないなあ、というと、生活科のリースづくりで使う、という。そういえば先月の学年便りの裏側に「9月下旬にリースづくりするので飾り付けの材料よろしく」的なことが書いてあったような。連絡ノートにも「りぼんもってくること」と書いてあった(見てなかった)。がしかしいつものことですが、なぜ朝になってから!・・・少々割り切れない気持ちのまま、朝食を食べながらどうするか相談する。

「リボンがないかもう一度探す(ないかもしれないけど)」「ビニールテープなど、あるもので代用(見た目がわるいけど)」「友達に借りる(余分はないかもけど)」などいくつか選択肢が出てくるが、結局わたしが文具店に買いに行くことにし、でかけた。

運が良ければ8時前に開いていることもある文具店は、今日は閉まっていた。

途端に、ほーらね、と思う。朝になってから言うからだよ、と思う。ほぼパジャマみたいなかっこで慌てて出てきた自分にもちょっと腹が立ってくる。家に戻ってそれをそのまま次男に言いそうになって、すんでのところで踏みとどまった。それはやめておこう、と思った。

「お店閉まってたよ、残念だったね」とだけわたしは言った。息子は泣きそうになりつつ、それでも「わかった。おかあさん、行ってくれてありがとうね」と返事をした。

息子が出かけていったあと、その出来事のことを考えていた。それまで「協力するよ」って気持ちで相談に乗ったりリボンを買いに行ったりしてたのに、お店が閉まっているのを知った瞬間、急に息子を責める気持ちになったこと。「昨日のうちに言わなかった息子がわるいのに」、朝から右往左往している自分のふがいなさに腹が立ったこと。

リボンを準備できなくてがっかりして、しかもわたしはそれを息子に起きた不都合な出来事として尊重できなかった。「確認しなかった自分の失敗だ」と思って勝手に傷つき、息子に対して皮肉な気持ちをもつことで、その傷から目をそらそうとしていた。

「残念だったね」って(いじわるな気持ちからじゃなく)言えてよかった。それ以上踏み込まなくて、ほんとによかった。息子の領域を、ぎりぎりで尊重できたと思う。

いっぽう息子の方はそれをきちんと自分の問題として認識していて、だから協力したわたしに対して「ありがとうね」と言ったんだと思う。もしわたしが「ほーらね」って言っていたら、また違う展開になっていたかもしれない。

 

 

自由に育ってほしいし言うこと聞いてほしい

少しずつ自己裁量でできる部分を増やしていけたらいいかな、と思い、衣類の管理やチョイスを子どもたちに任せている。その日何を着ていくかも、自分で決めてね、と言っている。

簡単なことだけど、実は案外試される。たとえば上下迷彩柄で出かけようとする兄くんが目に入った時に。まだ日中はけっこう暑いのに、弟くんが暑そうな長袖長ズボンを着込んでいた時に。

「望ましいありかた」を「教えたい」という気持ちと、「自分で自由に選択すればいいよ」という気持ちが、いつもけっこうせめぎあう。上下迷彩柄じゃないほうがいいだろう、というのも、この気温で長袖は暑いだろうというのも、わたしの考えであって「教える」ようなものではないはずなんだけど、でも、その逡巡は、「ちゃんと教えなくていいのだろうか」というフレーズになって現れがちだ。なんだかんだと、「言うこと聞かせたい」があるのだ。「自由に育ってほしい」という気持ちと同じくらいに強く。

強制っぽくなく優しく言えばいい、とか、Iメッセージで伝えればいい、とかいうような言い方の問題でもない。「子どもたちが自由に選択した結果がわたしの意に沿うような形であってほしい」という矛盾した思いがわたしの中にある限り、彼らはそれをそのまま受け取ってしまうだろう。それはしたくないので、そういう時には、何も言わずにしばらくそのままじーっとしてみることにしている。

そんな訳で今日、じーっとしていたら、なぜそのチョイスなのか、純粋に聞いてみたくなってきた。

(兄)「このシャツとパンツがいちばん着心地いい」
(弟)「外がくもっているから念のため」
と明快に答えて、息子たちはさわやかに登校していった。

 

子どもたちの服のチョイスを、「何も考えずに雑に着てる」みたいに思ってて、それがいやだったんだなわたしは、と思った。そうではなく、子どもたちなりの選択があったことに、ほっとした。

こんな風に、自分が「本当は何を問題としていたか」がわかるだけで、ああそうなのか、とすっきりすることは多い。誤解だってこともあるし、そうじゃなくても、ニュートラルに伝えられる可能性が出てくる。だから、問題点がクリアになるまでとにかくちょっとだけ止まろう。急いだり、不安になったりすることは何もない。

「ずる」と向き合う

小4息子がこのところずっと塾のオンライン計算課題に苦戦している。1回やり通すのに30分くらいかかる。20問中18点以上取れば合格で、合格すると1ヶ月に1回の習熟度別クラス替えの際にボーナス加点される、というわりとえげつない仕組みになっている。

息子は割と算数が好きで得意なほうだが緻密なタイプではないので、30分も計算し続けていると必ず2、3問は間違えることになる。当然なかなか合格しない。ところが、聞いてみると他の子たちはどんどん合格しているという。やや不可解に思っていたら、謎がとけてしまった。

どうやら、お父さんが横で計算機を使って確かめ算していたり、手練れになると、正答をすべて書き写していたりしている子が何人もいるらしい。インセンティブのはずのボーナス加点に、子どもも親も追い詰められている様子が伺える(涙)。

そんな話を聞きながら黙々と(ではないかもしれないけど)チャレンジし続ける息子の胸中を、ちょっと想像した。なんだよー、ずるじゃんかよ、って思ってるだろう。それでも自分の中の正義とか、「それをする意味」みたいなことも考えて、もう一回だけやってみよう、とか思って頑張ってみて、でもやっぱり不合格で・・・周りはやってるのに、苦手でなかなか合格できないのに、それでも踏みとどまるのってなかなか難しいんじゃないか。

正直いろんな面でナンセンスな課題設定だと思うけど、取り組み続けることでつく力もあるんだなあ、と息子を見ていて思った。計算力もだし、がっかりしては立ち直り続ける力も。それから、「ずるしたいな」と思う気持ちと向き合う力も。

ずるはいけない、なんてみんな知っていることだ。でも、したくなる時は必ずある。いくら普段清く正しく過ごしてたって、揺らぐ瞬間はいくらでもあるだろう。そういう時に必要なのは、「揺らいだけど、残った」という小さな体験の積み重ねなのかもしれない。

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役立たずだけど愛してほしい

自分の不手際で仕事に支障が生じた。対応のために出かけた帰りの電車の中で、脳内反省会を繰り広げる。「こうすればよかった」「こうすべきだった」がひとしきり巡ったあとで、ふっと「あーほんとに役立たずだわあたし」という言葉が浮かんで、ぎくりとした。

「どうせぼくは役立たずなんだ!」と、小1息子が時々言うのを思い出したのだ。そういえばこのあいだの日曜日にも、そんなことがあったばかりだった。あの時は、「宿題やり忘れてただけで役立たずなんて言わなくていいよ」と半分流してしまってたけど、せっかく時間がぽかりと空いたので(なにしろ40分も電車に揺られていたので)、考えてみることにした。

自分のことを役立たずだと言うとき、そこには何があるんだろう。

投げ出したい、無力だ、代わりに誰かにやってほしい、そんなのやらなくていいって言ってほしい・・・思い浮かぶままに任せていたら、「許してほしい」とか、「容認してほしい」「それでもいいよって言ってほしい」という言葉がどどっと出てきた。「役立たずなんだ!」と言ったときの、息子の声音や表情を思い出す。自分に絶望するというよりは、わたしに対して何か訴えるような、声と顔だった。

要するに、「こんなに役立たずな自分だけど、愛してくれる?」って言ってたんだな、あれは。それがわからなかったから「役立たずなんかじゃないよ」と、だいぶ見当違いな答えを返してしまった。

「愛してくれる?」って、ただ単にそう伝えればいいのに、なぜわざわざ「こんな自分だけど」というハードルを置くんだろう。息子も、わたしも。

価値観をすり合わせない

「長男くん、まだまだだなー。負けるもんかって感じにはならないんだな」と夫が言った。塾の課題でなかなか合格しない計算問題があり、先生に「合格してないのあと5人だぞー」とかなんとか言われてきたらしい。

負けるもんかって言うより、あたしだったらやだなーその煽ってくるスタイル、とわたしは答えた。競争っぽくなるのがとにかく嫌いなのだわたしは。対する夫は、競争は手段のひとつとして有効、というところにいる感じ。

以前はこういう違いがいやで、なんとかすり合わせようと・・・いや、本当のところを言えば、夫を変えようとしていた。自分のもつ価値観が正しいこと前提で(笑)。いろいろ学んできては、それをそのまま持ち込んで説得しようとしたり、議論をふっかけたり(同じか)、そんなことばっかりしてた時期があった。

でも最近は少し違ってきていて、わたしはわたしの思う正しさを、夫は夫の思う正しさを、ただテーブルの上に乗っけるようにして話すことが多い。「ぼくはこう思う」「わたしはこう思う」だけでやりとりを止めると、オチもつかなくて宙ぶらりんな感じにはなるんだけど、実はそれがけっこう大事なんじゃないかな、と思っている。

ひとつの正しい答えがあるわけじゃない。それぞれが息子との関わりの中で、これがいいと思うアプローチをすればいい。それに、たまにこうやって互いの考えを並べ合うだけで、必要な影響はもう与え合っていると思うのだ。





9歳からのリーダーシップ

小4息子が、体育でやるキックベースのキャプテンになったらしい。昨日は夜遅くまでかかって、ノート6ページに及ぶフォーメーションや指示を書いていた。

夕方、息子は「ぼろ負けだった」と言って帰ってきた。いろいろ考えてったんだけど、なんかみんなあんまりその通りに動けなくってさー、と言う。

話しているうちに

・みんなやる気はあるみたい(ぼーっとしたり、ふざけたりしている人はいない)
・自分の言ったことがわかって動いてくれる人と、わかってるけど動けない人と、よくわからない人がいるみたい
・まずは、苦手な人が「どう動いたらいいかわかる」ようになればいいんじゃないか

という風に思考が進んでいったらしい。でもどうすればいいかなー、という。あ、あたしキックベースとかソフトボールとか超苦手だったから、ちょっと参考になる意見言えるかも、と言うと、ぜひ聞かせてほしい、という。

運動音痴が役立つとはなー、と思いつつ、球技が苦手な人間がグラウンドに立った時の気持ちについて語ってみた。周りで何が起きてるかわからない、とにかくボール来ないでくれって思うんだよね・・・ボールがきたらどうすればいいかを、もっと単純化して説明してほしい。あと、自分が失敗して足を引っ張るんじゃないかって思って硬くなっちゃうから、明るく声をかけてもらえるといいかも。

「そうか、全体の動き方じゃなくて、その人がどう動けばいいかを説明した方がわかりやすいんだね」と納得した様子の息子。少ししてから、「でも、ぼくは作戦たてるのは得意だけど、励ますとかは●●のほうが得意かも。ちょっと頼んでみるかなー」と言った。

そうそう、リーダーはひとりで何役もやらなくていいんだよー。自分の得意なことで、チームのそれぞれがリーダーシップをとればいいんだよ。・・・と言いたかったけどやめといた。そこはぜひ、体験で学んでいってほしい。



ハグしようぜ

お風呂に入って歯磨きをし、さあ寝よう、という時になって、次男

「お母さん、最後にぎゅーして」

と言った。あーはいはい、とぎゅっと抱きしめたら、

「もうちょっと、ロマンチックな感じで!」

と注文が入る。ロマンチックて、と思いつつ、それならば、と、声にならない声で息子の名前を呼びつつ、廊下の端から駆け寄ってひしと抱きしめてみた。ついでにくるくる回ってもみた。次男は満足そうだったが、夜の21時に何をやっているのかわたしは。

どうも、ハグが苦手だ。苦手というより、習慣として、ない。わたしの親はわたしたちを十分に愛してくれていたと思うけれど、触れられた体験自体が、あんまり記憶にない。(そもそも40近く年前の田舎の一般家庭には、そういう文化自体なかったと思う。)

息子はやわらかくて小さい。お風呂上がりにはいい匂いがする。抱きしめるのは気持ちいいし幸せな気持ちになる、本当は。でも、「ぎゅーして」とか「ロマンチックに」とかストレートに言われると、あたふたしてしまう。息子のストレートな愛情表現を、受け取りきれないのだと思う。

結局、いつも茶化してしまう。わたしの「ついつい茶化す」という反応は、子どもからすると、「表現しても茶化され続ける」という体験になってしまっているのだろうか。

わたしも、もっとまっすぐ受け取ってまっすぐ返せたらいいのに、と、息子たちのストレートさに触れるたびに、思っている。

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