子ども観察記+α

兄(9歳・小4)と弟(6歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

楽しみなこと

弟くんが11月生まれ、兄くんが1月生まれなので、クリスマスや正月もはさまる11月から1月にかけてはイベントが目白押しだ。ふたりともいろいろなことを楽しみにしている。

弟くんはこのところ理科の実験や観察に憧れていて、図書館で実験本及び観察本を借りまくっている。はっと気がつくと、わたしのPCの検索履歴に「あるこーるランプ」とか「けんびきょう」とかたどたどしい感じの単語が並んでいる。ほしいんだね・・・

兄くんは兄くんで冬休みが楽しみなようで、「早くおじいちゃんち行きたいなー」「探求学舎(冬休みに受講予定のプログラム)楽しみー」「山の家にも一回くらい行ける?」とほぼ毎日言っている。

わたしは、欲しいものがあったり、行きたいところがあったりする子どもたちのことを、眩しいなあと思う。

どうもこのところ、何かを楽しみにするだけの元気がない。「今日の夕ご飯はカレーだ!」って(自分でつくるくせに笑)楽しみになっちゃったりするくらい、「何かを楽しみにする」ことはわたしにとって自然なことだったはずだ。それなのに、今のこの感じは一体どうしたことだろう、と思う。

もうすぐ役目を終える、今年の手帳を見返してみた。したこと、行った場所、買ったもの、食べたもの、見た映画、読んだ本のメモなどがぱらぱらっと書き込んである。いろんなものを選んで、いろんな時間の過ごし方を選択してきた結果の「今」なんだな、とふと思う。

さて、わたしは、この1年で選んできたものを大切にできているだろうか。大切に思うものにエネルギーを注ぎ、役目を終えたものをきちんと手放しているだろうか。

もう持っている服をチェックしたり、ケアしたり、新しい組み合わせを考えてみる。新しい服を買う前に、今はそんな楽しみを味わったらいいのかもしれない。




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休めないよ。

長男のリクエストで、冬休みにとあるプログラムを申し込んだ。

 

…と思いこんでいたんだけど、なんとその一日目が、まだ冬休みじゃなかった(汗)

そのプログラムに参加するのをものすごーく楽しみにしていた長男は、まあ当然のことながら大荒れだった。「じゃあ学校休もうか」と言ったら、「そんなことできるわけないじゃないか!」と言うので驚いた。(一緒にいた夫もびっくりしていたようだったが、「休もうか、と言い出した妻の方にびっくり」の方だった。)

「すごく行きたいんでしょ?受けられる機会も少ないし、そっちを選ぶのもいいんじゃないかと、わたしは思うけど」と前置きしつつ、「休んだらだめ」の中身を聞いてみた。

「学校休んで行くっていうことは、学校よりもそっちに価値を感じている、っていうことを表明することになるでしょう?それはできない。怖い。」

と言う。普段さんざん「授業がつまらない!」「やりたくない!」と表明しまくってるけどなあ、と一瞬思うけれど、でも、溢れかえるほど強く思ってるからこそ、それを隠さなくてはいけない、っていう気持ちもまた強いのだろう。「怖い」の中身も聞いてみたけれど、やはり一番気になるのは担任の先生の反応のようだった。(先生、おそるべし…)

「先生がどう思うかはわからないし、それは兄くんの行動とは、本当のところは関係ないことなんだよ」と、言ってはみた。言いながら、あーこれあたしがよく言われたり自分で言い聞かせてる奴だ、とも思う。

息子はその後かなり長い時間考えこんでいた。そして「やっぱり、休まない。」と言い、言ってからまた少し泣いていた。「学校休んで行きたいなーっていう気持ちがまだ少し残ってて…でもそんな勇気はないしなあー」と嘆いているので、勇気が必要だって思うときは無理しなくていいよ、と伝えた。勇気なんかいらないくらいに「これだ」って思った時には、もう体が勝手に動いているからさ。それぐらいパワフルじゃん君は、と。

1年生の頃は授業が気に入らなくて教室を脱走したりしたこともあったのに、そんな風に、やりたいようにやっている子だとずっと思っていたのに、いつのまにか全然違う人になっている。「〜するべき」とか「〜ねばならない」がたくさん生まれ、「人から見てどうか」という視点も育ってきている。9歳前後ってそういう時期だ。

このまま行くと、徐々になんらかの「基準」に沿って生きるようになってくるだろうし、その生き方でぐいぐい進んでいったらどこかの時点で限界を迎えるだろう。そしてきっと、自分の本当に欲するものに目を向ける日が来る。わたしが今歩んでいるプロセスと、息子のプロセスが重なってきている。

親子だけど、仲間なんだな、と思う。それぞれの道を歩きながら、時々「調子どう?」「今どんな感じ?」って確認し合うような。

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お母さん、じゃま!

少し前の出来事。
布団に入った長男がなかなか寝ずに、本を読んでげらげら笑っている(ちなみに読んでいるのはまんが戦国辞典。笑いのツボが不明)。しばらく気にせずに隣で一緒に本を読んでいたが、23時を回ってさすがに気になってきた。しかも、明日は学芸会なのだ。

「もうそろそろ寝ないと明日起きられないんじゃない?」

と言っても返事がないので2、3回繰り返して言ったところ、突然息子が

「勝手に決めるなっっっ!!」

と怒鳴ったのでものすごくびっくりした。

怒鳴った勢いのまま、息子は「もういい!寝る!!」と素直に(?)布団をひっかぶり、結局、数分で寝入ってしまった。

なんだかすごーく割りの合わない気分になった(笑)。

寝入った息子の隣で、怒鳴り声を聞いたことへのどきどきを鎮めつつ、息子の中で何が起きてたのか考えてみた。

息子が怒鳴った瞬間、「うっとおしい!じゃまだ!」という感情が、ばーっとこちらへ向かってきたのを感じていた。その下にある、「自分の力でやりたいんだよ」という思いも一緒に飛んできた。ちょろちょろ細かいところで邪魔をしてくる「お母さん」の言葉が、うっとおしくてたまらなかったんだろうなあ、と思った。わたしにも幼い頃そういうことがちょいちょいあったから分かる気がする。

結局、いろんな意味で「人の言うことを聞かない」タイプなのだ。きっと、彼の人生はいつでもぶっつけ本番で、体験し、あちこちぶつかりながら学んでいくしかないのだろう。そのぶん彼は、必要な情報をつかみとる繊細さと、折れないタフさを持って生まれてきているような気がする。うん、たぶん「ぶっつけ本番」に向いている(笑)。

それじゃあ別に、わたしがあれこれ言う必要ないんじゃないの?と思った瞬間に、そんなこと本当は全然言いたくないとずっと心の中で思っていた自分自身のことも、ふかーく気づいてしまった(笑)。

その出来事を境目に、わたしは息子の時間の管理やタスク管理を一切やめた。早く寝なさいも起きなさいも、ご飯食べちゃいなさいも宿題済んでるの?も言わないことにした(と書き出してみると、これまで本当にいろんなことを言い続けてきたんだな、と思う)。息子は今のところすごーく不安がっているけれど笑、わたしは快適だし、これが自然だな、という感覚がある。


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いじわるな気持ちの根っこに

お母さんリボンどこ?と、6時40分に息子が言った。リボンはもってないなあ、というと、生活科のリースづくりで使う、という。そういえば先月の学年便りの裏側に「9月下旬にリースづくりするので飾り付けの材料よろしく」的なことが書いてあったような。連絡ノートにも「りぼんもってくること」と書いてあった(見てなかった)。がしかしいつものことですが、なぜ朝になってから!・・・少々割り切れない気持ちのまま、朝食を食べながらどうするか相談する。

「リボンがないかもう一度探す(ないかもしれないけど)」「ビニールテープなど、あるもので代用(見た目がわるいけど)」「友達に借りる(余分はないかもけど)」などいくつか選択肢が出てくるが、結局わたしが文具店に買いに行くことにし、でかけた。

運が良ければ8時前に開いていることもある文具店は、今日は閉まっていた。

途端に、ほーらね、と思う。朝になってから言うからだよ、と思う。ほぼパジャマみたいなかっこで慌てて出てきた自分にもちょっと腹が立ってくる。家に戻ってそれをそのまま次男に言いそうになって、すんでのところで踏みとどまった。それはやめておこう、と思った。

「お店閉まってたよ、残念だったね」とだけわたしは言った。息子は泣きそうになりつつ、それでも「わかった。おかあさん、行ってくれてありがとうね」と返事をした。

息子が出かけていったあと、その出来事のことを考えていた。それまで「協力するよ」って気持ちで相談に乗ったりリボンを買いに行ったりしてたのに、お店が閉まっているのを知った瞬間、急に息子を責める気持ちになったこと。「昨日のうちに言わなかった息子がわるいのに」、朝から右往左往している自分のふがいなさに腹が立ったこと。

リボンを準備できなくてがっかりして、しかもわたしはそれを息子に起きた不都合な出来事として尊重できなかった。「確認しなかった自分の失敗だ」と思って勝手に傷つき、息子に対して皮肉な気持ちをもつことで、その傷から目をそらそうとしていた。

「残念だったね」って(いじわるな気持ちからじゃなく)言えてよかった。それ以上踏み込まなくて、ほんとによかった。息子の領域を、ぎりぎりで尊重できたと思う。

いっぽう息子の方はそれをきちんと自分の問題として認識していて、だから協力したわたしに対して「ありがとうね」と言ったんだと思う。もしわたしが「ほーらね」って言っていたら、また違う展開になっていたかもしれない。

 

 

自由に育ってほしいし言うこと聞いてほしい

少しずつ自己裁量でできる部分を増やしていけたらいいかな、と思い、衣類の管理やチョイスを子どもたちに任せている。その日何を着ていくかも、自分で決めてね、と言っている。

簡単なことだけど、実は案外試される。たとえば上下迷彩柄で出かけようとする兄くんが目に入った時に。まだ日中はけっこう暑いのに、弟くんが暑そうな長袖長ズボンを着込んでいた時に。

「望ましいありかた」を「教えたい」という気持ちと、「自分で自由に選択すればいいよ」という気持ちが、いつもけっこうせめぎあう。上下迷彩柄じゃないほうがいいだろう、というのも、この気温で長袖は暑いだろうというのも、わたしの考えであって「教える」ようなものではないはずなんだけど、でも、その逡巡は、「ちゃんと教えなくていいのだろうか」というフレーズになって現れがちだ。なんだかんだと、「言うこと聞かせたい」があるのだ。「自由に育ってほしい」という気持ちと同じくらいに強く。

強制っぽくなく優しく言えばいい、とか、Iメッセージで伝えればいい、とかいうような言い方の問題でもない。「子どもたちが自由に選択した結果がわたしの意に沿うような形であってほしい」という矛盾した思いがわたしの中にある限り、彼らはそれをそのまま受け取ってしまうだろう。それはしたくないので、そういう時には、何も言わずにしばらくそのままじーっとしてみることにしている。

そんな訳で今日、じーっとしていたら、なぜそのチョイスなのか、純粋に聞いてみたくなってきた。

(兄)「このシャツとパンツがいちばん着心地いい」
(弟)「外がくもっているから念のため」
と明快に答えて、息子たちはさわやかに登校していった。

 

子どもたちの服のチョイスを、「何も考えずに雑に着てる」みたいに思ってて、それがいやだったんだなわたしは、と思った。そうではなく、子どもたちなりの選択があったことに、ほっとした。

こんな風に、自分が「本当は何を問題としていたか」がわかるだけで、ああそうなのか、とすっきりすることは多い。誤解だってこともあるし、そうじゃなくても、ニュートラルに伝えられる可能性が出てくる。だから、問題点がクリアになるまでとにかくちょっとだけ止まろう。急いだり、不安になったりすることは何もない。

「ずる」と向き合う

小4息子がこのところずっと塾のオンライン計算課題に苦戦している。1回やり通すのに30分くらいかかる。20問中18点以上取れば合格で、合格すると1ヶ月に1回の習熟度別クラス替えの際にボーナス加点される、というわりとえげつない仕組みになっている。

息子は割と算数が好きで得意なほうだが緻密なタイプではないので、30分も計算し続けていると必ず2、3問は間違えることになる。当然なかなか合格しない。ところが、聞いてみると他の子たちはどんどん合格しているという。やや不可解に思っていたら、謎がとけてしまった。

どうやら、お父さんが横で計算機を使って確かめ算していたり、手練れになると、正答をすべて書き写していたりしている子が何人もいるらしい。インセンティブのはずのボーナス加点に、子どもも親も追い詰められている様子が伺える(涙)。

そんな話を聞きながら黙々と(ではないかもしれないけど)チャレンジし続ける息子の胸中を、ちょっと想像した。なんだよー、ずるじゃんかよ、って思ってるだろう。それでも自分の中の正義とか、「それをする意味」みたいなことも考えて、もう一回だけやってみよう、とか思って頑張ってみて、でもやっぱり不合格で・・・周りはやってるのに、苦手でなかなか合格できないのに、それでも踏みとどまるのってなかなか難しいんじゃないか。

正直いろんな面でナンセンスな課題設定だと思うけど、取り組み続けることでつく力もあるんだなあ、と息子を見ていて思った。計算力もだし、がっかりしては立ち直り続ける力も。それから、「ずるしたいな」と思う気持ちと向き合う力も。

ずるはいけない、なんてみんな知っていることだ。でも、したくなる時は必ずある。いくら普段清く正しく過ごしてたって、揺らぐ瞬間はいくらでもあるだろう。そういう時に必要なのは、「揺らいだけど、残った」という小さな体験の積み重ねなのかもしれない。

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役立たずだけど愛してほしい

自分の不手際で仕事に支障が生じた。対応のために出かけた帰りの電車の中で、脳内反省会を繰り広げる。「こうすればよかった」「こうすべきだった」がひとしきり巡ったあとで、ふっと「あーほんとに役立たずだわあたし」という言葉が浮かんで、ぎくりとした。

「どうせぼくは役立たずなんだ!」と、小1息子が時々言うのを思い出したのだ。そういえばこのあいだの日曜日にも、そんなことがあったばかりだった。あの時は、「宿題やり忘れてただけで役立たずなんて言わなくていいよ」と半分流してしまってたけど、せっかく時間がぽかりと空いたので(なにしろ40分も電車に揺られていたので)、考えてみることにした。

自分のことを役立たずだと言うとき、そこには何があるんだろう。

投げ出したい、無力だ、代わりに誰かにやってほしい、そんなのやらなくていいって言ってほしい・・・思い浮かぶままに任せていたら、「許してほしい」とか、「容認してほしい」「それでもいいよって言ってほしい」という言葉がどどっと出てきた。「役立たずなんだ!」と言ったときの、息子の声音や表情を思い出す。自分に絶望するというよりは、わたしに対して何か訴えるような、声と顔だった。

要するに、「こんなに役立たずな自分だけど、愛してくれる?」って言ってたんだな、あれは。それがわからなかったから「役立たずなんかじゃないよ」と、だいぶ見当違いな答えを返してしまった。

「愛してくれる?」って、ただ単にそう伝えればいいのに、なぜわざわざ「こんな自分だけど」というハードルを置くんだろう。息子も、わたしも。