子ども観察記+α

兄(9歳・小4)と弟(6歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

プロの仕事

先日、夫の実家に帰省した際に、義父が写真を見せてくれた。数年前、祝い事で上京した義父母の写真を、近所の写真館で撮ってもらったことがあった。その時の写真だった。

賞状や免許状、3人の子どもたちの卒業証書などなど、がしまわれている箪笥の中に、写真は入っていた。礼服を着ている義父、和装の義母がこちらを向いて写っている、「ザ・記念写真」的な一枚に、思いの外惹きつけられた。

こんなにクリアな写真を見るのは久しぶりだ、と思った。

服や髪や肌の質感が、つぶれたりせずに細部まできっちりと表現されている。それでいて全体としては濃淡がある。二人の表情が、一番強い情報として飛び込んでくる。柔らかいけれど、どこか晴れがましさもある表情。ふたりの積み重ねてきた時間がしっかり写り込んでいる、美しい写真だった。

10年たっても、30年、50年たっても残る写真だと思った。

一方で、SNSを開けば、毎日おびただしい数の写真が流れこんでくる。オートフォーカスでぱしゃぱしゃ撮って、アプリで色や質感を補正する。ディスプレイ越しに、しかもTLの小さい窓で見るのが前提ならば、正直なところ、ピントなんてそんなに気にならない。それっぽく背景をぼかすことなんて、携帯でもできるようになった。それっぽい、プロっぽい写真を撮る(つくる?)ことが、本当に簡単な時代になったと思う。そしてそういう写真ならではの華やかさや楽しさを、わたしも日々受け取っている。

でも、本当のプロの仕事は当然だけれど全然違う。写真嫌いの義父が、わざわざ見せたくなるというのは、そういうことなんだと思う。
「葬式写真はできたな」との義父の照れまじりの言葉を聞きながら、あの写真館にお願いしてよかったなー、と、心から思った。

わたしもそういう、箪笥の中に置いておけるような、流れていかない写真がほしい、とふと思った。オーソドックスな構図で、きっちり美しい写真。そういう写真を、いつかあの写真館で撮ってもらおうと思う。


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一人になりたい夏休み

夏休みに入ると、家の中での子どものボリュームが増大する。今年から学童のない小4に加えて、昨日からは、風邪で寝込んでいる小1とも、ずっと一緒だ。珍しく終日在宅となり、甲斐甲斐しく病児の世話をしたり4年生の勉強を見たりしていたのもいっときのことで、だんだん苛立ってくる。

熱が高いのに寝ない次男。ノートを開いたかと思ったら冷蔵庫を開けてたりと落ち着かない長男。スマホのアラートに、進めなくてはいけない仕事のことが頭をよぎる。せめてメールチェックだけは・・・と思うけれど、ひっきりなしにかかる声に、都度中断させられる。

とりあえず仕事は夜進めることにして(たぶん進められないだろうと思いつつ)、一緒にかるたで遊ぶことにする。心の中の苛立ちは小さく残ったままだ。子どもたちはなにも悪くない。(わたしだってなにも悪くないけど)。わかっていても、なかなか切り替えらんないなあー、と思いながら、ぼんやり札を読んでいく。

「お母さん、今あんまりやる気ない?」

勘のいい長男が声をかけてくれて、はっとする。

「うん、たしかに。」

と正直に答える。あ、でもかるたに対してやる気ないっていうより、ちょっといらいらしてるんだよねたぶん。・・・そうだな、一人で静かに過ごせたらいいな、って気持ちになってる。

 

「そうかー。お母さん一人でいるの好きだもんね」

長男はそう言って、「じゃ、次の札どうぞ」と無慈悲に言った(笑)。


そんな訳で今日は結局、ひとりになる時間はなかった。でも、「一人になりたいの」と言って、「そうなんだね」と受け取ってもらっただけで、気持ちのつっかえが取れた。ニーズは果たされなかった。でも、「そうなんだね」って、自分にも息子にも承認されるだけで、満たされた感じがあった。

いろんなニーズで彩られている毎日。そのすべてが果たされなくてもいい。わかっているだけでいい、わかってもらえるだけでいいこともたくさんある。

野球の先生

野球を習いたい、と次男が言い出してからだいぶ経つ。地元のチームに入れてみようかと思ってはサイトを開き、毎週土日にびっしり組まれている練習予定を見てはそっと閉じている。公園脇で練習を見守るご父兄を見かけるたびに、とてもあのお仲間には入れないと思う。

夏休みに入る前、彼が学校からプリントを持ち帰ってきた。区内のスポーツ施設で行われる「初心者野球教室」のお知らせだ。夏休み中の5日間。朝9時から10時半。全5回で2500円(安い)。せめてこれくらいならサポートしたい、と思い、申し込んだ。

先日その第一回があった。4人のコーチが、元気よくかつ温かくフランクに、集まった野球好きキッズに声をかけていく。最初は所在なげにしていた子どもたちが「返事、かならず返事してね!」「集合、って言われたらダッシュで集まろう!」ときっぱりした口調で活を入れられ、だんだんびしっとしていく。

この人たちの雰囲気には覚えがある、と思った。中学校で働いていた時に同僚だった「野球部の先生」たちにそっくりなのだ。家ではぐだーっと床に寝そべって「お水ください・・・」とかつぶやいている次男が、きびきび動いて大きな声を出している。そうさせるような「有無を言わせないパワー」が、彼らにはみなぎっている。決して丁重ではないフランクな口調とか、ぱっと聞いてわかるようなシンプルな理屈とか、「バット振ったら音が出る、すごい!」的な身体的プロフェッショナル感とか、そんなものが混ざった感じ。

そういえば、中学校時代の担任も野球部顧問だった。明るくフランクで頭がよく、やんちゃな生徒もすっと従わせてて、そしてわたしはその先生に反発しまくってた。やな感じ、と思ってたのだ。教員になってからもそうだった。自分のクラスのやんちゃくんを抑えてもらってたりフォローをたくさんしてもらっているのに、「野球部の先生」、または同じ匂いのする先生がたに対し、ありがたさと同時になんとはなしの「やな感じ」が拭えないでいた。

「はい、いーよいーよ!」などと、よく通る声で時折声かけをしながら練習を進めているコーチを眺めていると、その「やな感じ」が蘇る。練習が始まるまでお母さんに駄々をこねていた大きい子が、目をまっすぐコーチに向けて、何か答えている。疲れた、といってすぐ座り込む次男が、真剣な顔をしてボールを取りに行っている。・・・うーん、やな感じだ。

やな感じやな感じ、となんとなく思い続けて、ふと、そうかうらやましいんだなわたしは、と思った。確固たるやり方をもって、堂々と子どもと対峙している(ように見える)人たちを見て、うらやましいと思ってるんだ。

コーチは大雑把に声をかけているように見えて、実のところ20人ほどの子どもたちの動きをよく見ている。「もうちょっと肘下げてごらん」「そうそう」「お、いいね!よくなった!!」と、短くて的確なアドバイスとフィードバックで、子どもに「できた感」を感じさせていっている。

どれもこれもが「自分にはできない」って思ってることだらけなんだなー、と、日の強いグラウンド脇でしみじみ考えてしまった。教員としては当時、それは欲しくてたまらない力だったけど、今、母親としてはどうなのか、とも。

そんな野球教室もあっという間にあと2回。待望の野球ができて嬉しい次男はもちろん、付き添いのわたしにとっても学びの多い場になっている。

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「安倍さん」にエンパシーする

小4兄くん、友達と共謀罪の話になったらしい。昨日の剣道の帰り道、「お母さんから見て、共謀罪ってどういうもの?」と聞かれた。その問いがおもしろいなーと思いつつ、わたしの目から見た「テロ等準備罪法案」について話をした。

話を聞き終えた兄くんが、「お母さん反対派でしょ。」と言った。そうねえ、そこに一票投じる権利があるならわたしは反対だな、と答えた。兄くんは?と聞くと、

「決められない。よくわからない。反対側の意見しか知らないから」と言う。お友達との会話でも、「反対派」の意見が多かったらしい。

「○○くんは内容自体がよくないって言ってたし、○○くんは、内容はいいけど決め方が悪いっていう派だった」
と、学校での話を再現していた兄くんが、ふと

「政府はどんな意図があって法案つくったのかな」

と呟いた。

そうかー、法案の裏にもニーズあるか。そうか、そうだよなー、と思って、それから二人で、政府や、安倍さんにエンパシー(※シンパシー=同調ではありません)しながら帰った。「安全」「安心」のニーズがたくさん出てきた。あと、「自己信頼」「つながり」とか。

そんな風に対話ができたら、きっと現れてくる世界は全然ちがう。そして、そうやって世界を変えていくことのできる芽を、子どもたちの世代は自然に持っている。早い時期から社会に目を向けていることも、社会と自分とのつながりに対する感覚も、上下左右ないようなフラットさも、子どもたちの世代に特徴的な資質のように感じる。

安倍さんにエンパシーして泣くとかどういうことか、と思いつつ、未来への希望を感じた出来事だった。


私立中学校説明会に行ってみた

長男が学習塾に入り、「あれ、もしかすると中学受験する流れ?」みたいな雰囲気が出てきた。その気になってみたり、いやーそこまではできないわ(主に時間とお金の面で)、となったりしていたけれど、そもそも実際に見てみないことには、と、先週末、都内の私立中学校説明会に行ってきた。

向かったのは都内でも有数の進学校。何事もまずハイエンド機種を見てみたいタイプ(笑)。大学と併設されていることもあり、緑が多く、ゆったりした印象を受けた。

「説明会」と聞いて、進学実績とか沿革とか期待する生徒像とかを学校長が話す、というスタイルを想像していたら、英語と数学の授業の内容についてのお話だった。「について」、というよりほぼそのまんまプチ授業で、これがとても面白かった。

前に立つ教員がみな、いい声だったのがいちばん印象に残っている。ちょうどよい大きさとスピードで、「伝えたい」という気持ちと「伝わる」という信頼がある人の声だな、と思った。何より、話すときに、みなさん嬉しそうな顔をしていた。面白いものを共有する時の人の顔というか。高校時代の恩師に、そういう顔をしていた人が何人かいたのを思い出す。

一校しか見てないけれど、わたしが「学校」に求めているものが見えてきた。自分の喜びをわかっている先生がいること。授業やその他の教育活動がそうした喜びの表現の場として捉えられていること。最終的にはそれだけだな、と思った。「結果」としての生徒の様子や、それこそ進学実績みたいなことには実はあんまり興味がない。学校が、何を源として、どのようにあろうとしているのかだけ見ていけばいいな、と、今は思っている。


勝ったり負けたり

週末に、長男が参加する剣道大会の応援に行った。去年の秋の大会で初戦敗退して泣いてから、「次は絶対勝つ」と火が着いた。半年間一度も稽古を休まず、練習そのものにも熱心に取り組むようになった。

わたしは昔から一貫して勝ち負けのあることが苦手だ。平和主義だからというわけではなく、負けず嫌いだから(笑)。だから、これまでも「勝ちたい!」と燃える息子に、「勝ち負けじゃなくて、大事なのは試合の内容ですよ・・・」と水を差しまくってきた。

初戦、長男がこの半年でだいぶ腕をあげていたことに気づいた。落ち着いているし、足さばきもスムーズになっている。最短距離からまっすぐ打ち込んでいく。綺麗に動くようになったなー、と思っているうちに、試合が終わった。

二回戦の相手には、歯が立たなかった。よく動いていたけれど、素人目にみても相手の方が一枚上手、という感じだった。去年、一昨年は、すぐ鍔迫り合いになって、なんだかよくわからないうちに勝ったり負けたりしていた。そうか、上達してくると、試合自体がわかりやすくなってくるんだな、と思った。

面を外して戻ってきた長男は、「負けた」とあっさり言った。「よく動いてた」と声をかけると、「今やれることはやった」と言ってから、一瞬だけ目が泳いだ。泣くのかな、と思ったけれど、違った。

口にしてから、「いや、そんなことない、やれることはあったはず」と思ったのかもしれない。そのあとすぐ、先生のところへ行って、指導を受けていた。「やっぱり振りかぶってからが遅いって」と言いながら戻ってきて、帰り際にはもう、「6年になるとけっこう抜ける人が多いから、勝つチャンス・・・!!」と、やや黒い計画を練っていた(笑)。

そんな息子に、「勝ち負けじゃない」なんてよくいったものだと思う。彼はずーっと勝ち負けの中にいて、その中からいろんなことを学び取っている。「勝つため」を根っこに、休まずに練習に通い、試合できちっと自分の力を発揮する。先生に助言を乞う。そしてまた、次の大会に向かってスタートを切った。わたしとはまったく違う人生を、すでに歩んでいる。

そのことに、思った以上に深い安心を感じている。よかった、わたしたちは別々だ。どんどんおやり。わたしはここで見てるから。





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「アホ男子母」という、業

息子をふたり産んでみてはじめて、男の子の生態というものを知ったような気がする。

なんだかいつも砂っぽい、あちこち走り回る(止まらない)、靴下が行方不明、上履きが行方不明、ランドセルが(以下略)、ブラックホールに吸い込まれ続ける文具・・・そんな話を、男子母仲間(ときどき女子母)と何度してきたことだろう。

未だにいちいち驚かされるけど、毎回ほんと脱力するけど、時に本気で受け入れがたいけど、・・・要は、かわいくてたまらないのだ。息子たちのもつ、謎の世界観や、生態や、(ちょっと認めたくないけど)「母」という存在に対する無防備さが。

1、2年ほど前から、SNS上で#アホ男子母 というハッシュタグを見かけるようになった。たぐってみると、男児の突拍子もない言動に震える母たちのつぶやきがあふれている。

ひとつひとつが愛らしくて、あーあるある、と笑ってしまう。でも、笑ったあとで、少しだけ後味の悪さが残る。子どもたちを「消費」してしまったような、そんな感覚。

今日、友人と子育てについて話した。気づいたら「アホ男子母」モードになって、息子の行動について、笑っていた。まるで「自虐」みたいなトーンで笑ってた。息子は息子で、わたしじゃないのに。あとから振り返って、ぎょっとした。

愛情はあった。ただ、尊重がなかった。わたしはそこを、ほんとうによく間違える。きっと大事な課題なんだろうな、わたしの。

消費し合わない、所有し合わない、一個人どうしの人間関係をつくりたい。そのことを、家族という「ひとかたまり」になりがちな(とわたしが思っている)関係性の中で、挑戦してみたいんだと思う。

というわけで、そんな挑戦の記録をふたたび綴っていきたいと思います。