子ども観察記+α

兄(10歳・小4)と弟(7歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

友よ、君は教育してはいないだろうか(ヘッセ「シッダルタ」感想)

年末年始の帰省中にヘッセの「シッダルタ」を読んだ。インドの求道者、シッダルタの、ほぼ一生の物語だ。(ちなみにお釈迦様=ゴータマ・シッダールタとは別人。)

読み返すたびにヒットポイントが違うんだけど、今回ぐっときたのは、シッダルタが老境に差し掛かってから、自分の息子と暮らすようになる日々の話だ。

慈愛をもって接するシッダルタに、息子は心を開かない。シッダルタはそれを嘆くこともなく、ひたすら静かに、誠実に関わり続ける。

そして、ある日同居している友人に、君、苦しんでいるよねー、と看破される。

愛と喜びをもって関わっているつもりがいつのまにか心配や苦しみに絡め取られている(のに自分ではそんなことないつもりでいる)あたりとか、相手への尊重がいつのまにか自分の忍耐とイコールになっているあたりとか・・・うわーんシッダルタ、わかるよー!飲もう!!(※飲めません)

尊重し、強いることなく、待とうとするシッダルタの態度そのものが「あの子をしばっているのではないだろうか」、という同居人の言葉が刺さる。その人、シッダルタに「友よ、君はあの子を教育してはいないだろうか」って言うんだよね・・・。してるしてる!わたし毎日してます!!と即答してしまう。あるがままを愛したいと思っている相手に、気がついたらいろんなことを願い、相手を縛っている自分(とシッダルタ)。

実は、ここで語られていることって、繰り返し学んできたことではあるのだ。だから、その「縛りになってしまう愛」から自由であるふりをわたしはけっこうする。わかってるふりっていうか。息子と対等でいたいと願い、そのようにふるまう、子どもとの時間を楽しもうとする、彼らの自由なふるまいを見るとほっとする、「早く巣立ってほしいわー」って言ってみる・・・などなど。でも、その皮を一枚めくったら、めちゃくちゃあれこれ願ってるし心配しているし戸惑っている。「君は息子を輪廻から護ることができると思うのか」・・・思いたい・・・

・・・よなあやっぱり、と思ったのだ、「シッダルタ」を読んだら。だってシッダルタ先輩ですらあんなに苦しんでんですもの、そりゃそうなるわー、と思わずにいられない。

「苦しまなくなる方法」ではなく、「苦しみはあるし、あり続けるという事実」について読めた。それが今回のいちばんの収穫だ。子どもが思春期にさしかかろうとしているこのタイミングで読めてよかった。

おすすめしたいのでリンク貼っときます。

岩波文庫版「シッダルタ」(ヘッセ著:手塚富雄訳)