子ども観察記+α

兄(10歳・小4)と弟(7歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

嬉しくなっちゃう

インタビュー記事を書く仕事を時折いただいている。プロセスの中で一番好きなのが、文字起こしの時間だ。文字に移していくことでより濃密な体験になるのが嬉しい。

録音の中には自分の声も入っている。その声を聞くと、自分の「聞き方の癖」みたいなことに気づく。

録音の初めの数分間は、たいてい少しかしこまっている。「傾聴しなくちゃ」って気負いゆえか(笑)、合いの手もわりと短い。ところがそのうちにだんだん口数が増えてくる。質問だけではなく感想も言うし、笑ったり言いよどんだりもけっこうする。聞いてて「おしゃべり」に近いなあ、と思うこともある。

少し前までそれが恥ずかしくて、文字起こしの段階でほとんどカットしていた。何がかというと、嬉しさがダダ漏れな感じが恥ずかしかったのだ。その人の話を聞くのが嬉しい。言葉を交わせることが嬉しい。そんな感情のままに口数が増えていく自分の単純さが恥ずかしかった。

・・・んだけど、最近「それもまあいいのかな」と思うようになってきた。インタビューとは違うブレストみたいな場で「壁打ち」と言う言葉を使ったりする時もあるけど、わたしはたぶんどうやったところで壁にはなれない。「わたし」という人間が聞いている、という制限なり条件なり価値なりを、ないことにはできない。

そう思い、自分の話している部分もかなりがっつり起こしてみた。「やりとり」として再現することで、インタビューしていた時間の記憶がありありと蘇ってきた。

記事にする時は、おそらく「やりとり」の部分はカットすることになる。でもこの「やりとり」の感じをうまく表現できれば、今までとはまた違う良さが生まれてくる気がする。

だいじな話が聞けて嬉しくなっちゃう。そんな自分を隠さずにいることで、何か新しいものが生まれてくるかもしれない。それを見てみたいと思う。