子ども観察記+α

兄(10歳・小4)と弟(7歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

本当に友達と遊びたい?

「友達が遊びに入れてくれなくて、休み時間一人で過ごしている」と弟くんがこぼしたのが先週のこと。少し気がかりだったが、そのあとは割と「今日Aくんがさー」などと友達の名前が普通に出てくるので、まあそんなに心配することないかな、とも思っていた。

昨夜、再び「Bくんに『あそぼう』って言ったのに、いやだって言われた」と弟くんが言うので話を聞いていたら、横にいた兄くんが

「ちなみにぼく今日1年生のクラスに行ってみたんだけどさ」

と言った。聞いてみると、同じクラスの、同じく1年生に兄弟のいる女の子に誘われて、一緒に弟たちの様子を見に行ったのだという。

たしかに教室にいなかったね、どこいたの?図書館に行ってた、などというやりとりを聞きながら、1年生の廊下から弟を探す4年生チームの様子を思い浮かべてにやにやしてしまった。

「え、ぼくのためにわざわざ来たの?」と嬉しそうな弟くん。兄くんは、だって先週も、ひとりぼっちだって言ってたじゃん、とあたりまえのことのように答える。

「で、弟くんは本当に友達と遊びたいの?」

と兄くんがふと尋ねた。Bくんには断られて残念だったけどさ、他の友達を誘う手もあるかと思うんだけど。

「いや、Bくんとは遊びたかったけど、他の友達とは別に遊びたいわけじゃない」と弟くんは言い、何かに気づいたようだった。「あ、そうか!」

「ぼく、友達と遊びたい、っていうの、実はあんまり思ってない。昼休みは静かに過ごしたい。図書館行くとおちつくんだよー」

Bくんも静かにすごしたいから、ぼくに遊ぼうって言われても断ったのかもしれない、とつぶやいた時には、弟くんは、もうすっかり晴れ晴れした顔をしていた。

それが昨夜のこと。「弟くんは本当に友達と遊びたいの?」って、いい問いだな、やるな兄くん・・・と今朝も思い出している。「あ、そうか!」という弟くんの明るい声が、耳に残っている。

なけてくる

小1次男のクラスでは毎日音読の宿題が出る。ほんとうは教科書のどこを読むか指示があるのだけど、ずっと同じ単元を読んでいると飽きてくるので、好きな本を読んでOKにすることもよくある。

今日次男が選んだのは「宇宙探検365話」。小惑星探査機はやぶさについて書いてあるページを選んで読み進めていった。最後の方に来て急に声が途切れた。見ると、本を見つめたまま、ぽろぽろと涙を流している。

はやぶさが、さいごにもえつきるところを先に目だけで読んじゃって、なけてくる」

と小さな声で言うと、ふとんに転がりに行ってしまった。


次男はこんな風に泣くことがたまにある。なるほどそれは悲しかったねえ、と思うこともあれば、どこがツボだったのかすらわからない時もある。小さい頃泣き虫だったわたしは、「えっなんで泣いてるの?」的なリアクションがいちばん堪えたことを覚えているので、次男がそういう風に泣く時には、余計なことは言わず、努めて静かにしている。なんだかよくわからなくても、そのままにしておく。

はやぶさ」の章はこんな風に閉じられていた。

「地上からは、バラバラになりながら美しい光をはなってもえる、はやぶさのすがたが見えました。七年間、六十億キロメートルにおよぶ旅のおわりでした」

次男には、遠く燃え尽きていくはやぶさと、それを万感の思いで見守るチームの姿が見えたんだな、と思った。

パワーの出し方

10日ほど寝込んでいた。

胸と下腹部が痛くて起き上がった体勢を維持できない。うつらうつら寝ては目が覚め、いったん覚めると頭が冴えてしまって眠れなくなり、いろんな人のブログやtwitter(主に井伊谷周り)を回遊しては、疲れてきてうとうと寝て、の繰り返し。頻繁に見すぎて各ブログやらツイートやらの更新頻度と合わない。それで、新しい情報がなかなか上がってこないことに苛立ったりしてた。別の意味での病みっぷりに夫もややひいてた模様。

自分の中にある「面白い」という刺激に対する貪欲さと、それを他人に提供させようとする時の横暴なパワーをじわじわ感じた。ほんとつまんなくてぐったりした毎日だったけど、それを感じられたのはよかった。

元気になったら、面白いと思うことをもっとどんどんしよう、と思った。面白いことも、やってみたらなんだこれぜんぜん面白くなかったわってことも、イライラして爆発寸前になるようなことも、ドキドキしちゃって身の置き場もないようなことも、自分からしようと思った。

そういえば夏の間、わたしは変に落ち着いて暮らしていたんだった。仕事は時間内に切り上げ、部屋は涼しく整え、きちんと料理をつくり、空いた時間には、子どもたちの勉強をみたり一緒に遊んだりして過ごしていた。そんな風に穏やかに丁寧に暮らしているうちに、少しずつ元気がなくなっていってたのかも。何かに夢中になりすぎて部屋がやや乱雑、ぐらいな時が、わたしは一番元気でいられるのかもしれない。

そんなことを考えられるようになり、ぶじ熱も下がってきたので、さあさあさあ、と思っている。気持ちはとてもすっきりしている。

勉強はなぜするの、と聞かれた時に

「分数なんて、大人になってから使う?使わないよねーなんでやるの」と、分数のプリントに飽き飽きしている長男が呟く。新しい発見や面白さのある勉強ではなく、もう知ってて(でも時々間違えたりもして)、その精度を高めることが目的になっている類の勉強について、長男は頻繁に不満を表明する。計算とか、漢字とか。

「分数は、使うんじゃないかな。料理だと2/3カップとかよく出てくるし」と、とっさに口から出てくるけれど、この、「算数は生活に使うから必要」というのはわたしにとって完全に嘘、または仮説(40年間立証してないけど)だ。自分の生活を振り返ってみても、頭の中で計算はおろか、数字を扱うことがあまりない。あったところで、ネット検索や電卓で事足りる。算数嫌いの人間は、とにかく数字、計算の類を回避するようにできている。

でも、小学生の頃の計算練習が完全に無駄だったかというと、そうも思えない。いくらわたしだって、する計算はしますしね。カゴの中身をざっくり見て今日は3000円で足りるわな、とか、子どもの学年4クラスだったら35かける4でざっと140人か、とか。同じように、三角比や微分積分が必要で、日々使っている人もいるだろう。「学んだことが役立つかどうか」を決めるポイントは、学んだ内容にではなく、学び手の体験の側にあるのだとつくづく思う。

さて、それって何に似ているだろう・・・と考えて一番近いのは「修行」とか「写経」かもしれないと思った。

漢字の書き取りも、計算も、写経に似ていると思う。自分の書いていることの意味も、「それを書くということの意味」すらも、すぐには手にできない。それが実際役立つ日には、学んだ日のことなんてすっかり忘れて、「もともと知ってた」ぐらいの感覚になっているんだろう(し、そのくらいでなければ「身についた」とは言わないだろう)。「身についた」ものを生かせるかどうかは、その人の体験の広がりや深まり、その可能性に左右される。

とはいえ、「いつか役立つから」では納得できないほど、小学生の生活は「おべんきょう」に満ちている。修行、苦行、がまんの時間。もう知ってる、と自分が思っていることを書き続ける空しさ。「君の世界が広がれば広がるほど、勉強することの意味も広がるんだよ」的な答えが、しっくりこない時ってある。

結局、息子の問いかけに対しては、
「こうじゃないかな、という仮説はいくつかあるけど、今はすっきり答えられない」と正直に答えた。聞かれたからって答えが返ってくるとは限りません(笑)。「お母さんに聞いてみたけどはかばかしい回答が得られなかった」というのも、悪くないんじゃないかと、思う。

プロの仕事

先日、夫の実家に帰省した際に、義父が写真を見せてくれた。数年前、祝い事で上京した義父母の写真を、近所の写真館で撮ってもらったことがあった。その時の写真だった。

賞状や免許状、3人の子どもたちの卒業証書などなど、がしまわれている箪笥の中に、写真は入っていた。礼服を着ている義父、和装の義母がこちらを向いて写っている、「ザ・記念写真」的な一枚に、思いの外惹きつけられた。

こんなにクリアな写真を見るのは久しぶりだ、と思った。

服や髪や肌の質感が、つぶれたりせずに細部まできっちりと表現されている。それでいて全体としては濃淡がある。二人の表情が、一番強い情報として飛び込んでくる。柔らかいけれど、どこか晴れがましさもある表情。ふたりの積み重ねてきた時間がしっかり写り込んでいる、美しい写真だった。

10年たっても、30年、50年たっても残る写真だと思った。

一方で、SNSを開けば、毎日おびただしい数の写真が流れこんでくる。オートフォーカスでぱしゃぱしゃ撮って、アプリで色や質感を補正する。ディスプレイ越しに、しかもTLの小さい窓で見るのが前提ならば、正直なところ、ピントなんてそんなに気にならない。それっぽく背景をぼかすことなんて、携帯でもできるようになった。それっぽい、プロっぽい写真を撮る(つくる?)ことが、本当に簡単な時代になったと思う。そしてそういう写真ならではの華やかさや楽しさを、わたしも日々受け取っている。

でも、本当のプロの仕事は当然だけれど全然違う。写真嫌いの義父が、わざわざ見せたくなるというのは、そういうことなんだと思う。
「葬式写真はできたな」との義父の照れまじりの言葉を聞きながら、あの写真館にお願いしてよかったなー、と、心から思った。

わたしもそういう、箪笥の中に置いておけるような、流れていかない写真がほしい、とふと思った。オーソドックスな構図で、きっちり美しい写真。そういう写真を、いつかあの写真館で撮ってもらおうと思う。


一人になりたい夏休み

夏休みに入ると、家の中での子どものボリュームが増大する。学童のない小4に加えて、昨日からは、風邪で寝込んでいる小1ともずっと一緒だ。珍しく終日在宅となり、甲斐甲斐しく病児の世話をしたり4年生の勉強を見たりしていたのもいっときのことで、だんだん苛立ってくる。

熱が高いのに寝ない次男。ノートを開いたかと思ったら冷蔵庫を開けてたりと落ち着かない長男。スマホのアラートに、進めなくてはいけない仕事のことが頭をよぎる。せめてメールチェックだけは・・・と思うけれど、ひっきりなしにかかる声に、都度中断させられる。

とりあえず仕事は夜進めることにして(たぶん進められないだろうと思いつつ)、一緒にかるたで遊ぶことにする。心の中の苛立ちは小さく残ったままだ。子どもたちはなにも悪くない。(わたしだってなにも悪くないけど)。わかっていても、なかなか切り替えらんないなあー、と思いながら、ぼんやり札を読んでいく。

「お母さん、今あんまりやる気ない?」

勘のいい長男が声をかけてくれて、はっとする。

「うん、たしかに。」

と正直に答える。あ、でもかるたに対してやる気ないっていうより、ちょっといらいらしてるんだよねたぶん。・・・そうだな、一人で静かに過ごせたらいいな、って気持ちになってる。

 

「そうかー。お母さん一人でいるの好きだもんね」

長男はそう言って、「じゃ、次の札どうぞ」と無慈悲に言った(笑)。


そんな訳で今日は結局、ひとりになる時間はなかった。でも、「一人になりたいの」と言って、「そうなんだね」と受け取ってもらっただけで、気持ちのつっかえが取れた。ニーズは果たされなかった。でも、「そうなんだね」って、自分にも息子にも承認されるだけで、満たされた感じがあった。

いろんなニーズで彩られている毎日。そのすべてが果たされなくてもいい。わかっているだけでいい、わかってもらえるだけでいいこともたくさんある。

野球の先生

野球を習いたい、と次男が言い出してからだいぶ経つ。地元のチームに入れてみようかと思ってはサイトを開き、毎週土日にびっしり組まれている練習予定を見てはそっと閉じている。公園脇で練習を見守るご父兄を見かけるたびに、とてもあのお仲間には入れないと思う。

夏休みに入る前、彼が学校からプリントを持ち帰ってきた。区内のスポーツ施設で行われる「初心者野球教室」のお知らせだ。夏休み中の5日間。朝9時から10時半。全5回で2500円(安い)。せめてこれくらいならサポートしたい、と思い、申し込んだ。

先日その第一回があった。4人のコーチが、元気よくかつ温かくフランクに、集まった野球好きキッズに声をかけていく。最初は所在なげにしていた子どもたちが「返事、かならず返事してね!」「集合、って言われたらダッシュで集まろう!」ときっぱりした口調で活を入れられ、だんだんびしっとしていく。

この人たちの雰囲気には覚えがある、と思った。中学校で働いていた時に同僚だった「野球部の先生」たちにそっくりなのだ。家ではぐだーっと床に寝そべって「お水ください・・・」とかつぶやいている次男が、きびきび動いて大きな声を出している。そうさせるような「有無を言わせないパワー」が、彼らにはみなぎっている。決して丁重ではないフランクな口調とか、ぱっと聞いてわかるようなシンプルな理屈とか、「バット振ったら音が出る、すごい!」的な身体的プロフェッショナル感とか、そんなものが混ざった感じ。

そういえば、中学校時代の担任も野球部顧問だった。明るくフランクで頭がよく、やんちゃな生徒もすっと従わせてて、そしてわたしはその先生に反発しまくってた。やな感じ、と思ってたのだ。教員になってからもそうだった。自分のクラスのやんちゃくんを抑えてもらってたりフォローをたくさんしてもらっているのに、「野球部の先生」、または同じ匂いのする先生がたに対し、ありがたさと同時になんとはなしの「やな感じ」が拭えないでいた。

「はい、いーよいーよ!」などと、よく通る声で時折声かけをしながら練習を進めているコーチを眺めていると、その「やな感じ」が蘇る。練習が始まるまでお母さんに駄々をこねていた大きい子が、目をまっすぐコーチに向けて、何か答えている。疲れた、といってすぐ座り込む次男が、真剣な顔をしてボールを取りに行っている。・・・うーん、やな感じだ。

やな感じやな感じ、となんとなく思い続けて、ふと、そうかうらやましいんだなわたしは、と思った。確固たるやり方をもって、堂々と子どもと対峙している(ように見える)人たちを見て、うらやましいと思ってるんだ。

コーチは大雑把に声をかけているように見えて、実のところ20人ほどの子どもたちの動きをよく見ている。「もうちょっと肘下げてごらん」「そうそう」「お、いいね!よくなった!!」と、短くて的確なアドバイスとフィードバックで、子どもに「できた感」を感じさせていっている。

どれもこれもが「自分にはできない」って思ってることだらけなんだなー、と、日の強いグラウンド脇でしみじみ考えてしまった。教員としては当時、それは欲しくてたまらない力だったけど、今、母親としてはどうなのか、とも。

そんな野球教室もあっという間にあと2回。待望の野球ができて嬉しい次男はもちろん、付き添いのわたしにとっても学びの多い場になっている。