「ずる」と向き合う
小4息子がこのところずっと塾のオンライン計算課題に苦戦している。1回やり通すのに30分くらいかかる。20問中18点以上取れば合格で、合格すると1ヶ月に1回の習熟度別クラス替えの際にボーナス加点される、というわりとえげつない仕組みになっている。
息子は割と算数が好きで得意なほうだが緻密なタイプではないので、30分も計算し続けていると必ず2、3問は間違えることになる。当然なかなか合格しない。ところが、聞いてみると他の子たちはどんどん合格しているという。やや不可解に思っていたら、謎がとけてしまった。
どうやら、お父さんが横で計算機を使って確かめ算していたり、手練れになると、正答をすべて書き写していたりしている子が何人もいるらしい。インセンティブのはずのボーナス加点に、子どもも親も追い詰められている様子が伺える(涙)。
そんな話を聞きながら黙々と(ではないかもしれないけど)チャレンジし続ける息子の胸中を、ちょっと想像した。なんだよー、ずるじゃんかよ、って思ってるだろう。それでも自分の中の正義とか、「それをする意味」みたいなことも考えて、もう一回だけやってみよう、とか思って頑張ってみて、でもやっぱり不合格で・・・周りはやってるのに、苦手でなかなか合格できないのに、それでも踏みとどまるのってなかなか難しいんじゃないか。
正直いろんな面でナンセンスな課題設定だと思うけど、取り組み続けることでつく力もあるんだなあ、と息子を見ていて思った。計算力もだし、がっかりしては立ち直り続ける力も。それから、「ずるしたいな」と思う気持ちと向き合う力も。
ずるはいけない、なんてみんな知っていることだ。でも、したくなる時は必ずある。いくら普段清く正しく過ごしてたって、揺らぐ瞬間はいくらでもあるだろう。そういう時に必要なのは、「揺らいだけど、残った」という小さな体験の積み重ねなのかもしれない。
役立たずだけど愛してほしい
自分の不手際で仕事に支障が生じた。対応のために出かけた帰りの電車の中で、脳内反省会を繰り広げる。「こうすればよかった」「こうすべきだった」がひとしきり巡ったあとで、ふっと「あーほんとに役立たずだわあたし」という言葉が浮かんで、ぎくりとした。
「どうせぼくは役立たずなんだ!」と、小1息子が時々言うのを思い出したのだ。そういえばこのあいだの日曜日にも、そんなことがあったばかりだった。あの時は、「宿題やり忘れてただけで役立たずなんて言わなくていいよ」と半分流してしまってたけど、せっかく時間がぽかりと空いたので(なにしろ40分も電車に揺られていたので)、考えてみることにした。
自分のことを役立たずだと言うとき、そこには何があるんだろう。
投げ出したい、無力だ、代わりに誰かにやってほしい、そんなのやらなくていいって言ってほしい・・・思い浮かぶままに任せていたら、「許してほしい」とか、「容認してほしい」「それでもいいよって言ってほしい」という言葉がどどっと出てきた。「役立たずなんだ!」と言ったときの、息子の声音や表情を思い出す。自分に絶望するというよりは、わたしに対して何か訴えるような、声と顔だった。
要するに、「こんなに役立たずな自分だけど、愛してくれる?」って言ってたんだな、あれは。それがわからなかったから「役立たずなんかじゃないよ」と、だいぶ見当違いな答えを返してしまった。
「愛してくれる?」って、ただ単にそう伝えればいいのに、なぜわざわざ「こんな自分だけど」というハードルを置くんだろう。息子も、わたしも。
価値観をすり合わせない
「長男くん、まだまだだなー。負けるもんかって感じにはならないんだな」と夫が言った。塾の課題でなかなか合格しない計算問題があり、先生に「合格してないのあと5人だぞー」とかなんとか言われてきたらしい。
負けるもんかって言うより、あたしだったらやだなーその煽ってくるスタイル、とわたしは答えた。競争っぽくなるのがとにかく嫌いなのだわたしは。対する夫は、競争は手段のひとつとして有効、というところにいる感じ。
以前はこういう違いがいやで、なんとかすり合わせようと・・・いや、本当のところを言えば、夫を変えようとしていた。自分のもつ価値観が正しいこと前提で(笑)。いろいろ学んできては、それをそのまま持ち込んで説得しようとしたり、議論をふっかけたり(同じか)、そんなことばっかりしてた時期があった。
でも最近は少し違ってきていて、わたしはわたしの思う正しさを、夫は夫の思う正しさを、ただテーブルの上に乗っけるようにして話すことが多い。「ぼくはこう思う」「わたしはこう思う」だけでやりとりを止めると、オチもつかなくて宙ぶらりんな感じにはなるんだけど、実はそれがけっこう大事なんじゃないかな、と思っている。
ひとつの正しい答えがあるわけじゃない。それぞれが息子との関わりの中で、これがいいと思うアプローチをすればいい。それに、たまにこうやって互いの考えを並べ合うだけで、必要な影響はもう与え合っていると思うのだ。
9歳からのリーダーシップ
小4息子が、体育でやるキックベースのキャプテンになったらしい。昨日は夜遅くまでかかって、ノート6ページに及ぶフォーメーションや指示を書いていた。
夕方、息子は「ぼろ負けだった」と言って帰ってきた。いろいろ考えてったんだけど、なんかみんなあんまりその通りに動けなくってさー、と言う。
話しているうちに
・みんなやる気はあるみたい(ぼーっとしたり、ふざけたりしている人はいない)
・自分の言ったことがわかって動いてくれる人と、わかってるけど動けない人と、よくわからない人がいるみたい
・まずは、苦手な人が「どう動いたらいいかわかる」ようになればいいんじゃないか
という風に思考が進んでいったらしい。でもどうすればいいかなー、という。あ、あたしキックベースとかソフトボールとか超苦手だったから、ちょっと参考になる意見言えるかも、と言うと、ぜひ聞かせてほしい、という。
運動音痴が役立つとはなー、と思いつつ、球技が苦手な人間がグラウンドに立った時の気持ちについて語ってみた。周りで何が起きてるかわからない、とにかくボール来ないでくれって思うんだよね・・・ボールがきたらどうすればいいかを、もっと単純化して説明してほしい。あと、自分が失敗して足を引っ張るんじゃないかって思って硬くなっちゃうから、明るく声をかけてもらえるといいかも。
「そうか、全体の動き方じゃなくて、その人がどう動けばいいかを説明した方がわかりやすいんだね」と納得した様子の息子。少ししてから、「でも、ぼくは作戦たてるのは得意だけど、励ますとかは●●のほうが得意かも。ちょっと頼んでみるかなー」と言った。
そうそう、リーダーはひとりで何役もやらなくていいんだよー。自分の得意なことで、チームのそれぞれがリーダーシップをとればいいんだよ。・・・と言いたかったけどやめといた。そこはぜひ、体験で学んでいってほしい。
ハグしようぜ
お風呂に入って歯磨きをし、さあ寝よう、という時になって、次男が
「お母さん、最後にぎゅーして」
と言った。あーはいはい、とぎゅっと抱きしめたら、
「もうちょっと、ロマンチックな感じで!」
と注文が入る。ロマンチックて、と思いつつ、それならば、と、声にならない声で息子の名前を呼びつつ、廊下の端から駆け寄ってひしと抱きしめてみた。ついでにくるくる回ってもみた。次男は満足そうだったが、夜の21時に何をやっているのかわたしは。
どうも、ハグが苦手だ。苦手というより、習慣として、ない。わたしの親はわたしたちを十分に愛してくれていたと思うけれど、触れられた体験自体が、あんまり記憶にない。(そもそも40近く年前の田舎の一般家庭には、そういう文化自体なかったと思う。)
息子はやわらかくて小さい。お風呂上がりにはいい匂いがする。抱きしめるのは気持ちいいし幸せな気持ちになる、本当は。でも、「ぎゅーして」とか「ロマンチックに」とかストレートに言われると、あたふたしてしまう。息子のストレートな愛情表現を、受け取りきれないのだと思う。
結局、いつも茶化してしまう。わたしの「ついつい茶化す」という反応は、子どもからすると、「表現しても茶化され続ける」という体験になってしまっているのだろうか。
わたしも、もっとまっすぐ受け取ってまっすぐ返せたらいいのに、と、息子たちのストレートさに触れるたびに、思っている。
いないと困る
家で餃子をするとき、100個つくるようになってきている。単純に考えてもひとり25個・・・と思うとちょっとめまいがするけど、毎回なんだかんだと完食している。
今日は餃子の日、と先週から決まっていた。しかし、夕方になっても子どもと夫が外出先から帰ってこない。しかたないのでBSで大河ドラマを見つつ、ひとりで包み始めた。ところがなかなか終わらない。100個って果てしない・・・と思ってから、そうか、子どもたちの手がないからだ、と気づいた。
ふたりが餃子包みの手伝いをするようになったのは、何歳の頃だっただろうか。小さな手には皮が載りきらず、皮をお皿に置いて、具を入れるようにした。具をたくさん入れすぎたり少なすぎたりでロシアンルーレットみたいだったし、水をつけて閉じることの意味が分からずべちょべちょにぬらしてやぶいちゃったりもしたし、ちょっと目を離した隙に「みて、ピカチュウ型!」とか「アメフラシみたいー」などと言いながら自由に折りたたみ出すので焼きにくいことこの上なかったりもしたけれど、それでも餃子にするたびに声をかけ、一緒に包み続けてきた。
じょうずになってたんだな、いないと困るくらいに。
今夜の、わたしがひとりで包んだ餃子は形がそろってきれいだったけど、うちの「いつも」とはどこか違うものになってしまった。
俳句男子
私立学校の学園祭に行ってきた。息子のつきそい、という形ではあったけど当該の息子Aとは早々に別行動となり、息子Bを連れて、密かにお目当てだった俳句部の展示に行く。
近年、俳句の世界に若い人が増えている。「俳句甲子園」の影響が強いのだそうだ。訪問した学校は強豪校らしく、全国大会の模様をVTRで流していたり、大会提出句が掲示されていたりと、掲示も見応えがあった。
ふと気づくと、息子B(小1のほう)が受付のお兄さんに何か話しかけている。近づいてみると、「ぼくも家で句会するんだよー」とフランクに話しかけていた笑。
夏休み中、句会をしてみたい、と息子たちに請われて家族四人で句会をしてみた(それをぜひ自由研究に、という親の目論見は外れた)。夏井先生の「プレバト」仕込みで基本のきまりは承知している。席題3つで、子供たちは割とさくさくと作っていた。夫が一番苦労していて、結局投句できずだった。最高点は息子Bの句についた。
受付のお兄さんは小さい子に優しく、「どんな俳句をつくったんですか?」と息子に聞いてくれている。これこれこう、と披露すると、「いいねー、音が入ってるのが上手」とほめてもらっていた。「秋の日に、って言葉を一番下にするともっとかっこいいかも」とアドバイスまでもらっていた。
「ぼくもやってるんだよ」って話しかけられるのっていいな、と、息子のことがちょっと羨ましくなった。
わたしだったら、相手に比べて自分は下手だからとか素人だからとかランクづけしちゃって、そんなこととても言えない。大人だし。でも、そんなこと気にしないで「仲間だね」っていうところから表現できたら、ランクを超えたやりとりができる。世界が広がる。
お兄さんとの会話がかなり嬉しかったらしく、帰り道、発言がついつい五七五になっている息子を眺めながら、そんなことを思った。