短歌の子ども
1年ほど前から、短歌の会を開いている。お互いの話を聞き、その話をもとに(したり、途中からわいてきた別のことをもとにしたりして)歌に起こし、鑑賞しあう会だ。
毎日仕事だ家のことだと忙しくしていると、大きな出来事は覚えていても、日々の暮らしの中で「あ、面白い」と思ったことや、そこに通奏低音的に流れている気分のことは、どんどん忘れてしまう。短歌の時間は、わたしにとって、こぼれてしまっているそういうものを拾う時間になっている。
東直子さんという歌人がいて、わたしはその人が歌う子どもの歌が好きだ。たとえばこんな歌。
夕立に帽子を濡らし帰りつく子どもは魚の匂いに充ちて(東直子)
「魚の匂いに充ちた子ども」という言葉の中には、ぎょっとするような、得体のしれないものに対する感覚があると思う。その得体のしれなさにはたと目を留めている母親の視線を、わたしは東さんの短歌から感じる。
「母親とは、子どものことをよくわかっている存在である(べきである)」という誤解がわたしの中にはあるんだけれど、東さんの歌は、その誤解を気持ちよくけとばしてくれる。
子どもたちは、わたしと姿形が似ていて、わたしの用意した服やごはんや本やおもちゃに囲まれて育っている。だけど、わたしとは違う人間だ。わたしとは違う体、違う時間を持ち、違う体験を重ねている。
そのことに気づくたび、わたしも、ぎょっとしながら安心しているのだと思う。