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子ども観察記+α

兄(9歳・小4)と弟(6歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

×(バツ)から逃げない

息子の通う塾では、インターネットを使った語彙力UP、計算力UPのためのプログラムを導入している。問題が出て答えを入力すると、「ピンポーン」か「ブッブー」か、どちらかの音が鳴る。合格点が設定されていて、クリアすると次のランクに進むことができる。ちょっとしたゲーム感覚もあり、けっこう夢中でやっている。

今朝、息子がそのプログラムをやっているところを見ていて、あることに気づいた。

不正解になったときに、即座に次の問題へ移っている。正答も示されるのだが、それをちゃんと確認しないまま、次に行っているのだ。

それじゃあ意味ないじゃーん、と思ってから、はっとした。

この人、「×」を受け入れることができてないんだ。このプログラムだけじゃなく、ふつうの問題集も、何度言っても間違った問題に印つけないし、自主勉の部分、よくみると相当甘い感じで丸つけてる。誤答を消しゴムで消してしまう。

「間違える」ってことから逃げてるんだなー。・・・と思ったところで、そういえばわたしもずーっとそうだったよな、と、再びはっとする。

わたしも小さい頃から、「間違うこと」や「できないこと」に対し、敏感に反応していた。先生や親が「教室は間違うところだ」とか「できないのは恥ずかしいことじゃない。」ってどんなに言っても、聞く耳をもたなかった。怒ったり、泣いたり、逃げたりごまかしたり、いっぱいしてきた。

だから、息子に「間違ったっていい」的なことをいくら言ってもきっと届かない。だって、そう思えないから逃げるんだもの。

自分のことをふたたび振り返ってみる。自分の間違いをちゃんと見ようとしたのって、どんな時だっただろう。

教員採用試験の勉強の時のことを思い出した。1冊だけ買った問題集が読めなくなるまで、誤答に×をつけまくった。小論文も、何度も書いて、知り合いの先生に添削をしてもらった。教員になってからも、たとえば合唱指導が崩壊寸前になったとき、隣の組の先生に来てもらって、「とにかくなんでもいいからまずいところ言ってください!」と無茶なお願いをした。

間違うこと、できないことを直視できるのは、「それでも果たしたい、実現したい何か」がある時だ。親や先生の声なんかやっぱりあんまり関係なくて、自分の「これを実現したい」という欲に対して誠実になったときだけ、わたしは×がつく恥ずかしさを越えられる。

要は、息子にとっての「それでも実現したい何か」はまだ現れてない、ということなんだな、と妙に納得した。

お母さんはあるよ、それ。というかちょうど今日も、そんなことがあったよ(笑)。できなくて恥ずかしい、見積もりの甘さが恥ずかしい、そんなこといい歳してやってて恥ずかしい、とかいろいろ思って、でもやりたいことあるから、ちゃんと見るんだ。いてててて、って思いながら、見るんだよ。

息子にそう話してみたら、どんな顔をするだろうか。