子ども観察記+α

兄(10歳・小4)と弟(7歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

×(バツ)から逃げない

息子の通う塾では、インターネットを使った語彙力UP、計算力UPのためのプログラムを導入している。問題が出て答えを入力すると、「ピンポーン」か「ブッブー」か、どちらかの音が鳴る。合格点が設定されていて、クリアすると次のランクに進むことができる。ちょっとしたゲーム感覚もあり、けっこう夢中でやっている。

今朝、息子がそのプログラムをやっているところを見ていて、あることに気づいた。

不正解になったときに、即座に次の問題へ移っている。正答も示されるのだが、それをちゃんと確認しないまま、次に行っているのだ。

それじゃあ意味ないじゃーん、と思ってから、はっとした。

この人、「×」を受け入れることができてないんだ。このプログラムだけじゃなく、ふつうの問題集も、何度言っても間違った問題に印つけないし、自主勉の部分、よくみると相当甘い感じで丸つけてる。誤答を消しゴムで消してしまう。

「間違える」ってことから逃げてるんだなー。・・・と思ったところで、そういえばわたしもずーっとそうだったよな、と、再びはっとする。

わたしも小さい頃から、「間違うこと」や「できないこと」に対し、敏感に反応していた。先生や親が「教室は間違うところだ」とか「できないのは恥ずかしいことじゃない。」ってどんなに言っても、聞く耳をもたなかった。怒ったり、泣いたり、逃げたりごまかしたり、いっぱいしてきた。

だから、息子に「間違ったっていい」的なことをいくら言ってもきっと届かない。だって、そう思えないから逃げるんだもの。

自分のことをふたたび振り返ってみる。自分の間違いをちゃんと見ようとしたのって、どんな時だっただろう。

教員採用試験の勉強の時のことを思い出した。1冊だけ買った問題集が読めなくなるまで、誤答に×をつけまくった。小論文も、何度も書いて、知り合いの先生に添削をしてもらった。教員になってからも、たとえば合唱指導が崩壊寸前になったとき、隣の組の先生に来てもらって、「とにかくなんでもいいからまずいところ言ってください!」と無茶なお願いをした。

間違うこと、できないことを直視できるのは、「それでも果たしたい、実現したい何か」がある時だ。親や先生の声なんかやっぱりあんまり関係なくて、自分の「これを実現したい」という欲に対して誠実になったときだけ、わたしは×がつく恥ずかしさを越えられる。

要は、息子にとっての「それでも実現したい何か」はまだ現れてない、ということなんだな、と妙に納得した。

お母さんはあるよ、それ。というかちょうど今日も、そんなことがあったよ(笑)。できなくて恥ずかしい、見積もりの甘さが恥ずかしい、そんなこといい歳してやってて恥ずかしい、とかいろいろ思って、でもやりたいことあるから、ちゃんと見るんだ。いてててて、って思いながら、見るんだよ。

息子にそう話してみたら、どんな顔をするだろうか。

連休中のひとり時間

伊豆の実家に帰省中の昨日、静岡市美術館の「アルバレス・ブラボ写真展」のポスターを見かけた。

写真家の名前は知らなかったけれど、バルコニーで頬杖をついて下のほうを覗き込んでいる少女の写真に惹かれた。見てみたい。東京にも回ってくるんじゃないかな、と検索をかけてみたら、東京の日程は昨年のうちに終わっていて、しかも静岡が最終だった。


「これ見たい!明日行かない?」とまずは家族を誘ってみる。えー、明日?明日は帰って宿題やんないとなあ(兄)、とか、混むんじゃない?(夫)とか、いいけど妖怪ウォッチの前に帰れる?(弟)、とか、おもいおもいの反応が返ってくる。

「じゃああたしひとりで行ってこようかなー。」と言うと、「じゃあ帰りに小田原城寄ってく?」などと男三人で相談をはじめ、ひとり時間が急きょ出現した。

数年前のわたしだったら、ここで「ひとりで行くね」とは言わなかったかもしれない。帰省中だし、家族と一緒に過ごしてるんだし、明日はもう東京に戻るんだし、そもそも静岡微妙に遠いし・・・「べき」という言葉すら入らないくらい自然に「決まっている」と思い込んでたことが多かった。

自分の中にある、「美しいものに触れること」「ひとりの時間をもつこと」への切実さに気づいてから、わたしはその言葉にすらなっていない「べき」をひとつひとつ外していっている。(今はまだその過程にいる。)

今朝、新幹線のホームで、東京方面と名古屋方面に分かれて乗るのが新鮮だった。「母として存在する」ということにわたしも(たぶん夫も)割とこだわりがちで、それが時には居心地よくもあるから、「行かない理由」「しない理由」なんていくらでも見つかる。でも、そこをあえて一歩動いてみることで見える景色は、いつでも広々とひらけていて、爽快だ。

アルバレス・ブラボの写真は、とても美しかった。その写真を見るために、連休の中日ひとりで新幹線に乗ったことを、きっとわたしは長く覚えていると思う。

少年と海

実家からドライブして海の方へ行った。

「11時から大リーグの試合見たい」
「海興味あるのお母さんだけだよね?」
というつれない息子たちをやや強引に車に乗っけていく。

車を止めて、真っ先に飛び出したのは次男。目の前の海に向かってがんがん下っていく。石の間に小さなかにを見つけて喜んでいる。

心配性の長男は、「そっち波くるよ!」(注:凪いでます)と、防波堤の上でしゃがんでいる。

防波堤に座り込みながら大きい声でいろいろ話しかけてくる長男に、「降りておいでよ」と声をかけた。こわごわと岩場を下り、こちらにやってくる。降りたら安心したようで、波打ち際の少し大きな石の上に座り、海を眺めはじめた。

わたしも少し離れて海を眺める。湾や岬の形が、ジオラマのように小さく、くっきり見える。遠くからだんだんと近づいてくる、波のリズムが面白い。波が裏返ったところの水の色が美しい。

すぐそばで、石の上に座っている長男は、何を感じているんだろうか。身動きせずに、じーっと波を見つめている。

だいぶ長いこと、そうやってふたりで海を眺めていた。(その間、次男は夫とかにを探していて、遠くのその気配を感じているのも、なんだかよかった)。

そろそろ行こうか、と声をかけると、長男はこちらを振り返って

「波は、おもしろいね」

と、言った。あー、同じ時間を過ごしたなあ、と思った。

車に戻りながら、「今度あたしが海見に行く時、誘おうか?」と聞いたら「うん」ときっぱり答えた。「波を見てると、なんか不思議な気持ちになってくる。なんだろうこれ」と。

仲間が増えた。

ゴールデンウィークの列車移動(兄弟げんか仲裁編)

こだま自由席で家族4人移動してみた。

さすがGWの真っ只中だ。品川から乗ったんだけど、ホームにはすでに長い列。先に来たのぞみには誰も乗らないのでいやな予感がしていたら、こだまにみんな乗った。乗車率何パーセントっていうんだろうかこれ。通路まで人がいっぱいのこだまをみるのは初めて・・・!!

はじめのうちは、「もう小学生だから立つよ当然!」とはりきっていた兄弟たち。がしかし、暑いし人多いしでイライラしてきたのか、新横浜出たあたりからけんかしはじめる(早すぎ)。

足踏んだとか座席についてる手すり取ったとかなんとかかんとか。もともと自分自身が人混み苦手なので、兄弟と一緒にイライラしたり、イライラがそのまんまこぼれてる兄弟にさらにイライラしたり。

夫はといえば、涼しい顔をして窓のほうを見ていたかと思えば、時々穏やかに兄弟をなだめていて、なんだか負けた気になる(笑)。ふだん通勤電車で鍛えてるかどうかの違いだろうか。

兄弟の声なき小競り合いは続く。いや、もう徐々に普通のけんかになりつつある。「ねえもう小田原で降りて東海道線に乗り換えようよー、しらす丼食べたい」と夫に持ちかけたが聞こえないふりされた。

しばらくすると夫が突然、

「そうだ、ちょっと兄くん剣道の構えしてみな」と言った。兄くんうなずいていきなり素振りを始めそうになるので、「素振りじゃなくて構えだけで、手刀で」とつけたす。

「弟くんもできる?そしたら三島まで、どっちが姿勢キープできるか競争ねー」との声に、通路で突如として姿勢を整え始める兄弟。おおお夫?と思う。

結局ふたりはそのまま三島まで姿勢をキープしていた。

そして、ふたりはその間けんかもせず、というかほとんどしゃべることすらなく、ずっと静かに落ち着いていた。体の中の平衡感覚にじーっと集中して、その感覚を楽しんでいる感じが、そこにはあった。

わたしも真似してみたらそれがなかなか快適で、体は面白いものだなー、と思っているうちに三島についた。なかなか面白かった、と夫に告げたら、「兄くんと弟くんでバランスの取り方が違うのが、見てて面白かった」という答えが返ってきた。やっぱりなんか負けた気がした。

「PTAの噂」を検証してみた。

今年はじめてPTA役員になった。「学年部」という役割で、クラス会を開いたり、年に何回かある学校行事のお手伝いをする、という内容のもの。学級委員みたいなものなのかな、と思っていたけれど、別にそういう、「みんなのリーダー」みたいな場面はないらしい。(当たり前か、親だから。)

「上下関係でたいへん」
「園ごとのグループがある」
「保育園チーム肩身狭い」
「全部紙で来る」
「会議が長くて何も決まらない」
「とにかくいろいろ不条理」

などなど、PTAを巡る、リアルもSNSいろんな噂を真に受けて近寄らないようにしてたけど、・・・いや、別にそんなことないかも?と思っている(4/28現在)。

まず、古くからいるベテランPTAのみなさんは、突然飛び込んできたニューカマーにとても優しい。「ここに来ているだけでもう十分!えらい!」とほめてくれて、「意味わかんないところあると思うからどんどん聞いてね!」と、じゃんじゃん声をかけてくれる。高校の時、こういう明るくて頼もしいお姉さんいっぱいいたなあー(涙)。

メンバーが決まったその日にメーリングリストができてお互い自己紹介しあい、メーリスとか初めてで、って人にはさくっと誰かが設定教えてくれてて、今日開いた50人を越す部会(活動方針などの話、年間の係説明&決定、各クラスでのランチ会実施について諸々決定)も、トータル1時間半で終わった。


もちろん、学校や集まるメンバーにもよるので一概には言えないけど、PTAって憶測や想像が先行する部分がけっこうあるのかもしれない。だいたい、「その話誰から聞いた?」って自分で振り返ってみても、もう心もとないくらいだもの。なんとなく、「きっとこうなんでしょ?」と決めてしまったんだと思う。百聞は一見にしかず、っていうけど、ほんとに自分でみてみないと、本当のことってわからない。

自分の仕事や子供や家のこともあるけど、それ以外の場でいっちょ一肌脱ぎますか!って集まった人たち。一年間、一緒に楽しくやれたらいいなあ、と思っている。

泣いちゃった。

4月から、弟くんの友達のMくんを、朝30分ほどお預かりしている。Mくんのご両親が出勤してから学校が開くまでの時間をうちで過ごし、弟くん、兄くんと一緒に登校している。

M
くんは寡黙な男の子だ。

うちに来ても、静かにカーペットに座り、本棚から本を出して読んでいる。テーブルでは、早くご飯食べないと、とか今日墨汁いるんだった、とかわちゃわちゃしているので、わたしと夫はMくんから醸し出される落ち着いた雰囲気に憧れている(笑)。


今日のMくんのこと。


朝、「おはようございます」と言って入ってきたところまではいつもの通りだったのに、ふと気づくと、洗濯物干しの前に、こちらに背を向けるようにして立っている。

どうしたのかな、と思って近づいて顔を見たら、泣いていた。

はじめは静かにぽろぽろ涙を流し、少ししゃくりあげて、声が小さくなっていって、涙が止まった。

つかれてるのかな?お母さんに叱られるとかなんかしたのかな?といろいろ思い浮かんだけど、なんか、それを聞き出すのは違うかな、と思った。人知れず(にしたかったんだろうな、背中向けて)、静かに涙を流し、自分で感情を収めていくMくんの様子を見ていて、そう思った。


「お水のむ?」と聞いたら、うん、というので、お水を汲んで渡した。

そのあとの出来事。

子ども達を見送り、朝の家事を済ませ、仕事を始める。メールを確認しながら、なんとなく朝の出来事を思い出していた。

そしたら突然、なんだかよくわからない涙が出てきた。特に悲しいことは起きていないはずなのに、ぽろぽろ涙が出てくる。とりあえず休憩にして、2、3分くらい頭を空っぽにして泣いた。そのあとお茶を淹れて飲んだ。

洗濯物干しと対峙していたMくんの背中や、小さい嗚咽を思い出した。「泣いていいよー」と、わたしはその時言ったんだった。

「泣いていいよー」、って、あたしじゃん!w

そのまま素直に泣いて、泣き終えて登校していったMくんの姿が、今度はわたしに「泣いていいよー」って言ってくれたんだな、と思った。

本質をみること

新学期になってはじめてお友達と小競り合いしたらしい兄くん。

小競り合いの理由は、「手打ち(ハンドベース的なものか)」で、本当はセーフだったところをアウトとられて負けた、的ないつものパターン(また今年もこれか・・・)。

その話をひとしきりした後で、「もうひとつ気になっていることがある」という。

遊ぶ時のチームぎめで、「各チームで一番強い子が、かわりばんこに他の子を指名していく」という決め方をしているらしく、「それだと、最後の方になった子がいやな気持ちになるじゃん。でも必然的に誰かが最後になるじゃん。」と言う。

ほほー、と思う。


ルールや勝ち負けにこだわって友達にくってかかることも、弱い立場に立つ友達を気にかけることも、兄くんの中では矛盾がない。

できごとだけを見ているとまったく異なるふたつのものに見えるけど、その根底には、共通するその子のキーコンセプトというか、本質としてもっているものが横たわっている。それを見つけると子どもに対する理解が深まる、ということを、最近つくづく感じている。

「友達と仲良くできる子かどうか」というような通知表的尺度では、兄くんみたいなあらわれはたぶん測れないだろう。「ある/ない」「いい/わるい」を超えたところにあるものを、わたしは見たい。

兄くんの場合でいうと、彼には機会の均等性や公平さを重んじる感覚があるように見える。だから、「自分だけ得をする」も「自分だけ損をする」も、同じくらい耐えられないことなのだろう。

そこから出てくる「友達にくってかかる」や「友達を気にしつつだまっていた」という行動のレベルでは、改善や成長のポイントはもちろんある(そしてとても大事)。

でも、そこにだけ目を向けるのではなく、その子のどういう本質がその行動を取らせているのか、ということのほうを、できるだけたくさん見ていきたいと思う。

何より、そのほうが面白い。毎日が「ほほー」の連続になります。