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子ども観察記+α

兄(9歳・小3)と弟(6歳・保育園児)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

いい月曜日。

月曜の朝、みんなが出かけていったあとで部屋を片づけながら、土日のことを思い出す時間がけっこう好きだ。

リビングのどまんなかに、「ラキュー」の箱が置いてある。昨日の晩、弟くんがつくっていた新幹線の途中までできあがっている。「つくりおわるまでねない!」と言い張って、みんなが寝たあとまで起きてつくっていた。今朝も「これ誰もさわらないでね!お母さん続きやっちゃだめだよ!」と念押ししていた(やらないよ…)

ベランダには、兄が干していった洗濯物がかかっている。袖が中に入ってるのもある。というか今紅白帽が干してあるのを発見したんだけど、大丈夫か兄。

テーブルには夫の淹れてくれたコーヒーが載っている。今朝、ふだん飲むコーヒーが切れていて、そういえばパックのドリップコーヒーの使いかけあるなあ…と思いつつ、探すのが面倒なので「コーヒー切らした」と言い張ってたら、「ふーーーーーん」と言って、夫が見つけてきたのだった。

日曜はずーっと4人で家にいて、しかも兄弟がやたらと歌をうたいまくるので、静かな時間がないとつらいわたしは何度か気を失いそうになった。一度は近くのコーヒー屋さんに家出して、ひといきついて戻ったりもしたんだった。

今こうして静かな部屋の中にひとりでいることの尊さよ!と思う。夕方になれば戻ってくる喧噪も含めて、尊い。

これからわたしはコーヒーを淹れ直し、夕方まで家で仕事をする。お昼は近くのパン屋に買いに行く。兄に頼まれていた赤青えんぴつとノートも買う。部屋のまんなかのラキューは、うっかりふまないようにして過ごす。

いい月曜日だ。



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性教育!

conobie.jp

を読みました。
「聞かれたらちゃんと答えよう」とはずっと思ってたんだけど、目下のところ性の話題にはぜんぜん触れてこないご兄弟…
まだまだ子どもなのね、って思ってたけど、よく考えたら、兄くんの好きな戦国時代小説には、武将たちの房事が割ときっちり書かれてるのだった。

おぼろげに知りつつあり、しかしそれを親には語っていない、というところだなあ。ふーむ。(記事にある「9歳を過ぎると外部の情報が増え」、って本当だ)

考えてみたら、わたし自身もそんな感じだった。小3くらいから、だんだん小説やテレビドラマの中に、「なんだこれは?」って感じの不可解な描写があることに気づきはじめて、あーなんだかこういう感じのことね、と頭の中でイメージができていったんだった。それこそ、新聞で連載してた「影武者徳川家康」とか。あと、「ノルウェイの森」とか。

でも、小説やドラマの中の、特に女の人は、どちらかというと辛そうに見えた。なんか基本真顔だし。だからわたしは性表現について、割と暴力に近いイメージで捉えていたかもしれないと思う。(なので、大人になって拍子抜けした。あれ?案外楽しいじゃーん、って)

性の話の中に含まれる、不思議さ、楽しさ、愛おしさ、執着、いらだち、衝動…もし、「お母さんはどうだった?」って聞かれれば答える用意はできている。けどまあ、その質問はこないだろーなー笑。

というわけで、日々の生活からの切り口を、なんとなく探し始めている。

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パン切ってあげようか?

朝、弟の食事がなかなか進まない。聞くと、「お腹がいたくていたくて食べられないよ」という。


顔色は悪くない。(さっきまで兄とプロレスごっこしていた。)ひとまずお腹にも触れてみたが、ちゃんと動いている。

「このへん痛い?」「少し休んでいようかねー」などと話していたら、先に食事を始めていた兄が、


「四分の一くらいだったら食べられそう?」と、言った。

「うーんちょっとだけなら食べられそう」「じゃあぼく切ってあげよっか」というやりとりの後、兄は台所でトーストを四つに切って戻ってきた。そして、切られたトーストのひとつめを弟はすいすい食べ、「もう一個たべようかな」「あれあれもう一個行けそうだぞ」などとといいつつ、結局完食した。

なんだかいい感じじゃないか君たち。じゃあ2人に任せてお母さんはもう少し寝るね!…と、うっかりふとんに戻りそうになりました。

そんなに盛大に優しくする、という感じじゃなくて、まるで何かのついでであるかのような、すっとした声の掛け方だった。だから弟も、すっと乗れたのだろう。

こういうやりとりって、どちらかが疲れていると、できないだろうという気がする。兄弟は今、元気で健康なんだな、と思う。ありがたい。

ふしぎな子の話

次男の保育園の同級生に、ちょっとふしぎな女の子がいる。

次男をお迎えに行くと、時々部屋の入口までやってきて、手品を見せてくれるのだ。

切れた!と見せかけてつながっている毛糸。折り紙でつくったおさいふの中に入ったらいつのまにか増えているコイン。種もしかけもぜんぜん分からない。

ふしぎな話をしてくれるときもある。この間は「どんなに大きな紙も、9回以上は折れない」という話を教えてくれた。(家でやってみた。たしかに9回しか折れなかった)

わたしがいるのを見つけると、すすすっと近寄ってきて、「ねえねえ、おもしろいこと教えてあげようか?」と、目を見ながら小さい声で言う。(いつもではない。手品もお話もないときの彼女は、目があってもスルーだ。クールな人なのだ。)

彼女のお母さんに、「◯◯ちゃん、手品じょうずですねー」と声をかけたことがある。お母さんは、「手品ですか?」と驚いていた。家ではやっていないという。しまった、秘密だったのかあれは、と思って、それ以上は聞かなかった。(が、それにしても、6歳の子が、家族に知られずに手品やふしぎなお話を習得することが可能だろうか?)

お迎えの時間の関係で、彼女に会える曜日はだいたい決まっている。その日は心のどこかで「今日はあるかな。」と楽しみにしている自分がいる。楽しみだけど、でも期待しすぎないように。平静を装いながら、保育園の玄関を通る。

彼女はまだ小さいのに、もう自分の秘密をもっている。そしてそれを時々こっそり見せてくれる。とてもふしぎで、そして素敵な子だ。



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ぼくなんかいなければいい

先日来、何人かの友人がSNSでこの記事をシェアしている。

blogos.com


これを読んで、少し前にあった次男とのやりとりを思い出した。

次男はその日、兄の文房具を持ち出してこちょこちょいたずらしていて、止めても止めてもなかなかやめなかった。「やめて」とくりかえして言っても聞かない。夫が「そっか、きみは話が聞けないんだね」と言ったとたん、それまでにやにやふざけていた次男が急に、

「お兄ちゃんばっかり!ぼくなんていなければいいんだ!!」と、言ったのだ。

もう、びっくりした。その場は「お兄ちゃんばっかり」的なシーンではなかったし、「ぼくなんていなければいいんだ」の言葉の重さは、起きてることとあまりにも不釣り合いに見えた。

夫が「そんなこと間違っても言うなよ」と言うのと、「弟くん、それほんとうに思ってる?」とわたしが聞くのがほぼ同時だった。

わたしのほうが一見「聞く感じ」にはなってたと思うけど、でも、彼の言葉を正面から受け止めてないところは一緒だった。次男はその後本格的に怒り始め、そこからのやりとりでようやく「お兄ちゃんばっかり」の根っこを探り当てることができた。

この記事の中には自傷行為をする子どもたちに対する大人たちの「甘えている」という反応が紹介されていた。また、「死ね」が口癖の子に対して「ユーモラスに」そんなこと言わないでよ、と声をかけて抱きしめる、という方法も(記事では「問題のある方法」として)紹介されていた。

記事に出ていたこれらの反応と、自分たちが次男に返した言葉は、おそらく同じ種類のものだという気がした。どこかに、子どもたちの表現を「かわす」「ふさぐ」感覚が入っているように感じる。

とっさに「かわす」のはなぜか。わたしの場合でいうと、たぶん、こわいのだ。子どもの声を、本当の意味でちゃんと受け取る、ということが。ちゃんと聞いてしまったら、もしかしたら自分はそれを受け止めることができないかもしれない。親なのに。(この「親なのに」を外せば、きっともっと聞けることは増えるんだろう、と思うんだけど、なかなか難しい)

そう思ったら、「まだいのちの大切さを知らないたかだか6歳の子が、どこかで聞いたことを言っているだけ」と思い込んだほうが、はるかに楽だ。そして、「そんなこと簡単に言っちゃいけない。あなたは大切な人なんだから」という風に、論点をすりかえた方が、楽なのだ。

でもそうやって「大切だよ」と言葉でねじふせた瞬間に、大切にしてほしい、という声を潰すことになる。

その、「ぼくなんていなければいい」から数日、次男の様子を見ていたら、それまで見えてこなかったものが見えてきた。なんだかすごくはしゃいでるけどちょっと背中のへんが強ばってる感じだな、とか、今は表情も呼吸も落ち着いてるな、とか。あ、今表情が陰ったな、とか。そういうことを感じ取れることが増えたかもしれない。そして、そんな風に感じ取れているときは、言葉でのやりとりも無理がない。スムーズに流れていく。

積極的に話しかけてくる長男と話している時間のほうが長い、とか、ここのところ長男の用事が増え、それに次男をつきあわせることが増えている、とか、いくつかの発見もあった。

やや耳(&言葉)頼りになりがちな子どもとのコミュニケーション。もうちょっと他の感覚も使っていけるようになるといいな、と思っている。

理科の問題、どう教える?(文系母編)

小3息子が、理科の問題を前に、うーんうーんと唸っている。

「モンシロチョウの幼虫が食べるものを選びなさい」という問題。例として、アブラナとダイコンが出ていて、もうひとつを選びなさい、というもの。「バッタの特ちょう=虫」の男にはハードルが高い。

こういう、知ってないとどうにもならない問題を教えるのって難しいよなあ、とまず思う。どんなアプローチするのがいいんだろう、と思いつつ、「まあまずはアブラナとダイコンの情報を集めて共通項を見つけてごらん」と言ってみる。調べようにも植物図鑑的なものがないので、国語辞典で調べる息子。(と、うちの本棚やっぱり相当かたよってるな…と内心で思うわたし。)

しばらくして、息子は「ふたつともアブラナ科だった。ということは、アブラナ科の植物を食べる可能性が高い」と、選択肢に上がっている植物を、端から調べ始めた。なかなかにまどろっこしい。他の選択肢は「ミカン」とか「ニンジン」とかなので、(この選択肢だったらコマツナ一択…!)と心の中でつっこまずにはいられない。ミカン、木だし…

結局、息子はどうにかこうにか答えにたどりついた。たぶん、「コマツナアブラナ科である」ということは忘れないだろう。しかし、コマツナの形状や、どんな風に生えているのかを知るのは次のステップだ。(一応冷蔵庫に入ってたのを見せたけど、へーほーふーん、という感じだった…涙)

「分からない問題にぶつかったらできる限りで情報を集める」とか「その情報を並べて比べてみる」「共通点、相違点について考える」といった、考え方の手順みたいなものは、わたしでも手渡せる。でも、わたしが理科系だったり植物好きだったりすれば、もっと関心をもてるようなアプローチができるのかもな、と、ふと思う。

もちろん親が全部カバーする必要はぜんぜんないので、そこは学校の先生におまかせすればいいのだろう。でも、子どもが「おっ、面白い!」って思う瞬間に、もっとたくさん居合わせられたらいいのになあ、とも、やっぱりどこかで思っているのだ。

図工の先生

兄の学校の公開日。
図工の授業を見に行ったら、図工専科の先生の言葉がいちいちかっこよかったのでメモ。

①「こうだろうと思って描かないで。見て、見て、見て!」
クロッキーの授業。文房具や人物モデル(先生と、立候補した子ども)を5分とか7分とかで描くというもの。教室を回りながら、先生が何度も「こうだろう、って頭の中で思ったことを描くんじゃなくて、見たものを描くの」と声をかけていた。「今よく見て。ここからだと目は片方しか見えないでしょ?そうしたら片方だけを描くの」「頭の中を描くんじゃないの。見えたものを描くの。」「見て、見て、見て!」と、いろんな子に、くり返しくり返し。

②「今何人かの子が悲しい気持ちになった」
女の子がモデルになって前に出た時に、独り言みたいにからかいの言葉を投げた子がいた。先生がすかさず、「今あなたが何となく投げた言葉で、何人かの人が悲しい気持ちになったことに気づいてる?」と言葉で制した。「投げた」っていう言葉と、「◯◯さんが」じゃなくて「何人かの子が」っていう言葉。

③「待ってくれるかな」
クロッキー中。先生がひとりの子の机の前を通りかかって視界を遮る形になったときに、その子がすかさず「先生見えません」と言った。先生は、さっと通り過ぎてから「うんごめん。だけどさ、一瞬じゃない?先生が通り過ぎるの。待ってくれるかな、そういう時」ってさらっと言っていた。

どれも、何よりその先生の人となりが分かる言葉だと思った。一人の人が、その場で感じたことを言葉にしている感じ。(学校の先生って案外そういう発話が少ないんじゃないかな、とも思う)

そういえば、わたしのこれまで出会ってきた図工(&美術)の先生も、他の教科の先生とちょっと違う雰囲気だったな、と思う。自由さとか、大人っぽさとか、本質を知っている感じとか。

「頭の中を描くんじゃない、見て!」なんて、なかなか聞けないけっこうだいじな話だと思う。いい話をしてもらってるんだな息子は、と思った。そういうのを湯水のように浴びて、そして忘れる(笑)というのが初等教育のベストな形なんだろうなー。

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