子ども観察記+α

兄(10歳・小4)と弟(7歳・小1)の、日々の観察記録と、+αの記録です。

展覧会

兄小学校の展覧会へ。
体育館の中に、1年生から6年生までの作品が、
ぎっしり展示してあった。

天井まで届くくらいの立体作品や、
壁いっぱいのカラフルな絵。
素材も、針金やらアクリル板やら
ビーズ、木材、その他いろいろ。
ブラックライトを使ったものまであった。
ほんとうにバラエティに富んでて、
昭和の頃とは違うんだなああああ、と思う。

兄は、
「こっち来て。この人の、すごいんだよ」
と、上級生のかっこいいオブジェのところに
連れていってくれたり、
かと思えば、学童の同じ班の下級生の作品を見つけて
「意外とうまいんだな〜」
と感心したり。
少し照れた、というか、晴れがましい感じの
顔で、あちこち案内してくれた。

自分の作品は、
「これ」
と指差して、あっさりとどっか行ってしまった。
兄がつくっていたのは、
とにかく高く積み上げた立体作品と、
「頭の中はいっぱいだ」というタイトルの、
自分の頭の中を描いた絵だった。
「自分の頭の中」として描いてたのが、
「お金」と「テスト」と「お寿司」
でびっくりした…そ、そうなの?笑

ひとつ気になったのは、ほとんどの作品が、
頭の中だったり空想の街だったり、
自分で考えた動物や怪獣だったりと、
イマジネーションの世界を
形にしたものだったこと。
低学年から高学年まで、同じだった。

今は、模写とか写生とかは、あんまりしないのだろうか。
そういう時代なのかな…

子ども達のイマジネーションの世界は、
とてもカラフルで豊かだった。
だからこそ、彼らが現実の世界をどう捉えているかも
見てみたいなー、と思った。

言い返したい

長男が、学童の友達に嫌なことを言われている、という。
聞くと、
「◯◯子、って呼んでくる。やめろって言っても、
からかう口調でさらに言ってくる」
と言う。
相手の子を知ってるので、言ってる顔が浮かぶ(笑)。

長男は、
「言い返したいんだけど、なんかいい言葉ない?」
と続けた。
言い返したいの?うん。
もし、やめてほしい、って思ってるなら、
言い返すのはお勧めしないけど。
いや、なんかこう、ぱしっと言い返したいんだけなんだ。

そんなやりとりをする。
今、何か「ぱしっと言い返す」ことで満たしたいものが
あるんだな、と思う。
「すっごいきれいにぱしっと言い返したら、
☆☆くんはなんて言うんだろうね」と聞いてみた。
「『これは一本取られたって感じかなあ」と、長男。
一本取られた、って、いい言葉だ。
やってやったぜ感もあるし、なんとなくだけど、
☆☆くんへの尊重も感じられる。
まあ、ふつうの小3男子はぜったい
「一本取られた」って言わないと思うけど笑

そのやりとりで、わたしは彼のリクエストに乗ることにして、
朝ごはんを食べながら、
ふたりでけっこう真剣に「仕返しの言葉」を考えた。
でも結局、決定打は思いつかず、彼は登校していった。

どうなったかな、と思い、帰宅後尋ねてみた。
今日も、◯◯子、と言われた、という。
「冷静に考えたら、
やっぱり、それ言うのをやめてほしいだけだと思って、
スルーすることにした」
と返ってきた。さっぱりした顔だった。

ちょっと前までは、こういうことがあると、
「長男が軽んじられている」と感じ、
そのことに、内心けっこう傷ついていた。
(わたしは、軽んじられるのがいやなのだ。)
でも、長男自体は違う捉え方をしていることに、
あるとき気づいた。

少なくとも、起きていることを、
「軽んじられている」というトーンでは捉えていない。
「あいつ、なんかやなこと言ってくる」
というフラットさが、彼にはある。

そのフラットさに助けられながら、
わたしは、人との関わりかたについて、
一緒に学んでるんだなー、と思う。







 

実用的じゃない

朝、小雨が降っていた。
兄は「たとえ午後晴れたとしても、
必ずや傘を持ち帰ってみせます…!!」
と言い残して登校していった。
「ご武運を」と言って見送った。

どうも我が家は、こんな風な、
実用的じゃない会話が占める割合が多い気がする。


今朝、家の中で話されていたことを
ちょっと振り返ってみる。

起き抜けの兄と弟がクイズを出し合っていた。
その後、「お母さん、敦盛ってどこまで知ってる?」
と聞かれた。あつもり…信長が本能寺で舞うやつ…
学校で流行ってるんだそうだ。(ほんとか?)

朝食の席では、
夫が棋士加藤一二三氏の物まねをしていて、
兄弟が大ウケしていた。
夫と兄はその後、
羽生さんとなんとかさんの歴史的大一番の
盤面(と、ひふみんのリアクション)について
熱心に話していた。

その間に、わたしが
「卵ごはんにする人〜」と声をかけ、
「保育園のおもちつきって木曜だっけ?」と確認し、
「お皿片づけてって、お皿」と念を押し…と、
ひとりで実用パートを担っていた気がする。

クイズやしりとりのような言葉遊び、
武将になりきってしゃべるごっこ遊び、
超ニッチな知識を披露しあう同好会トーク。
家の中での「会話の時間」の多くが、
楽しみのために使われてるんだな、と思う。
そう思うと、なかなか幸せだ。
自分がその中でつかの間
「現実対応担当のお母さん」プレイをしていることを
含めて。
(ちなみにこれ、プレイだから楽しいんであって、
背負わされてるロールだったらほんとつらい。
いつでもできるしやめられる、プレイであるという認識が
とてもだいじ。)


実用的じゃない家族。悪くないねえ。



今日、どうだった?

昨日の夕食は、ハンバーグだった。子ども達は、
「おっ、今日ハンバーグ?」
と嬉しそうに言って、食べ始める。
黙々と食べる。もくもく。もくもく。
…会話がない。あと、食べるの早い。

「おしゃべりしながら食べたい」と持ちかける。
「あ、じゃあクイズする?」
と返ってくる。
最近ずーっとやってる
「この人誰でしょうクイズ」をする。
盛り上がる。が、クイズと会話は違う。
わたしのイメージする話題は「今日の出来事」であって、
「細川頼元の次の管領は誰でしょう」ではない。
(クイズやりすぎて、内容が相当ニッチになってきてる…)


子どもの頃のことを思い起こしてみた。
父の帰りは遅く、
夕食はいつも、母、祖母、弟とわたしの4人でとっていた。
おしゃべりしながらゆっくり食べていた覚えがある。
…いや、違うな。
しゃべってたのは、主に、母だ。
小学校の教員だった母は、
「今日はこういう授業をした」
「子ども達がこんなことを言っていた」
「他の先生にこんなことを言われた」
というようなことを、食事の時によく話していた。
そのおしゃべりに祖母があいずちを打っていて、
わたしと弟は、それを聞きながら黙々と食べていた。
おかげで、母の勤めている小学校の
子どもたちや先生たちのことに、とても詳しくなった。

そうか、わたしがまず話してみようか。
と思ったけど、話したいことが出てこなかった。
うーん、別に、普通の一日でした。
「今日、どうだった?」と聞かれるつらさがよく分かった笑。

話したいことを話せばいいのかな。そう思って、
「そういえばこの間シンゴジラみた」
と言ってみた。

子ども達は、シンゴジラを見ていない。
それでも、
「それでお母さん最近シンゴジラばっかり検索してたのかー」
とか
「◯◯くんのお父さん、5回見たらしい」
「ぼくはそういう怖い系は見なくていい…」
などと思い思いに言葉を返してくれて、
わたしも、見た感想を語ることができて、なんだかとても満たされた。
イメージしていた「家庭団らんの図」とは微妙に違うけど(笑)

星野源が子ども達に大人気だ。特に次男。
真田丸を見ていても
秀忠が出てくると必ず
「これ星野源さんなんだよねー」
と確認してくる。
「今日は星野源さん出なかったね」とか。
「おかあさんはSAKE ROCKのCDもってないの?」
とも聞いてくる(もってません)。

ついにyou tubeで「恋」のPVを見た。
「かっこいー!」と盛り上がる次男(とわたし)。

歌詞が知りたいと言われ、ネットで探す。
それを見ながら、you tubeかけながら、ふたりで熱唱する。

むねのなかーにあるーもーのー
いつかみえーなくなーるーもーのー
と歌いながら
エアギターをかきならす五歳児。
(カッティングしながら頭振るのもちゃんとやる。
かっこいいやつ。)
子どもの声で歌われる「恋」の歌詞は、
ちょっとぐっとくる。


歌詞を見ていてふと
「“指の混ざりって何?」と思って口に出し、
はっしまった子どもに、と思ってたら、
「あー、手をつなぐってことじゃない?」
と、さらっと返ってきた。

末恐ろしい。

戦争が始まった日。

朝のラジオで、今日は真珠湾攻撃の日です、と言っていた。
「いったいぜんたい日本はなぜしんじわんを攻撃したの?」という
弟くん。宍道湖と混ざってる感あるな、と思いつつも、
「いったいぜんたい」という言葉が耳に残った。

そしてわたしは、自分でもびっくりするくらい、
うまい説明ができなかった。
要は、自分が分かってないのだ。すっきりした言葉で説明できるほどには。
頼みの綱の「まんが日本の歴史」を見ても、なんだかしっくり来ない。
まんがに描かれる東条英機も他の軍司令部メンバーも、どこか
「あああもうだめだ止めらんない」みたいな顔をしてる。
おいおいうそでしょー?と思う。

終戦の経緯なら、だいたい説明できる。
歴史の時間にも習ったし、小さい頃から、
「終戦特番」みたいなテレビ番組でさんざん見てきた。
でも、開戦の経緯は、未だわたしの中ですっきりしていない。

出口も大切だけど、入口だって大切だ。
戦争への歩みを止める、ということに絞れば、入口のほうが
よっぽど大切かもしれない。
今の日本がもう一度戦争をするとしたら、
どんな手続きを踏むことになるのか。
その決定プロセスに、ひとりの国民であるわたしは法的に、
どこまで、どのように関わり得るのか。
そういうことを、わたしは本当には分かっていない。

現時点のわたしは、子どもの問いに答えることができない。
ちゃんと調べようと思う。できたら一緒に。


どこにでも宿る愛

少し前に、映画の「この世界の片隅に」を観た。
その後すぐに、原作の漫画を買って読んだ。


映画にはいいシーンもたくさんあって、
基本的に好きな感じでもあったけれど、
見終わった後、かすかにだけど、違和感が残った。
漫画を読んで、その理由が分かった。

わたしは、原作と映画で、何より
主人公の描かれ方が変わっている、と感じた。
映画化に際して、主人公のすずは、
無垢で、無力で、そして残念ながら
愚かな存在へと、わずかに修正されている。
(そう感じさせる描写のうちのひとつは、
はっきり作品の傷といっていい変更じゃないかと思っている。)
それが、とても残念だった。

だいたい、ささやかさや健気さを
強調しすぎじゃないかと思った。
その物語なら、もうわたしたちはくり返し見てきているはずだ。
「力なき我々が、」という物語。
でももし、いい大人がみんなそこに埋没しちゃってるんだとしたら、
いったい誰があの子を守れるというんだろう。

原作で一番すごいと思ったのは、
最後の「しあはせの手紙」だ。
「どこにでも宿る愛」という言葉の力強さ。
「どこにでも」という部分に、骨の太い野性味を感じる。

すずの魅力も本来は、天然さじゃなくて、
骨太さとか野性味だったんじゃないかと思うのです。

もうちょっとしたたかでワイルドな、大人のすずが見たかったなー。